きのうみた夢どんな夢

20221230V

好きな言葉に「懐かしさ」と答えたテヒョンさんのことをずっと考えている。テヒョンさんにぴったりだと思ったし、でもテヒョンさん本人以外では思いつかない言葉だと思ったから。
 
「그리움」恋しさ、懐かしさ。
なぜなら懐かしさがあれば、僕自身の感情にもっと正直になれてその感情をきれいにしてくれる何かがたくさんあるので
懐かしい、という感覚には、優しさがあるように思う。愛着、親しみ、許し、赦し、受け入れみたいなものがある。
たとえば苦手だった人や確執のある故郷のことを、懐かしいとは言わない。言うとしたらそれは完全に無関係になれたときじゃないかな。
「僕自身の感情にもっと正直になれて」
テヒョンさんはいつも正直に見えるのになと思ったけど、そうではなく、懐かしいと思えるくらいになったとき自分の気持ちがよくわかる、ということかもと思った。
 
 
たまたまその時読んでいた小説にノスタルジーという言葉が出てきたのを思い出した。
それは光を取り除いた夕暮れのような、皮膚に感じられない風のような、誰も見ようとはしないし、あるとも思っていないある一群で、幼い心に奇妙に染み入った。いわば未来へのノスタルジーとでも言えるものだった。(水と礫/藤原無雨)
未来へのノスタルジー。この一節自体はいかようにも受け取れるけど、私はここを読んだとき、自分の記憶を超えた大きな懐かしさみたいなものがあるのかもしれないなと想像した。
歴史、伝統、そういうものへの感情も広義の(めちゃくちゃ広く薄く引きのばせばだけど)懐かしさ、だったりするんだろうか。自分が今生きている世界と時代そのものに含まれている懐かしさという概念? 目の前にないものが自分と関わることに思いを馳せること。

愛おしさ、が好きだとも話していたテヒョンさん。
懐かしい、という感覚には、優しさがあるように思う。 愛着、親しみ、許し、赦し、受け入れ みたいなものがある。テヒョンさんに感じる優しさはそれに近いのかもしれない。
優しさにもいろいろある。諦めとか無関心による優しさもあれば、暴力的な優しさも重たい優しさもある。
 
懐かしいと言うとき、人や場所や出来事そのものだけでなくて、記憶や思い入れが含まれている。奥行きというか、三次元的というか、表面には見えないものが思い描かれる。
思い出は人と共有できない。できたとしても記憶は共有できない。万が一できたとしても、そこに抱く感情は共有できない。懐かしい、は根本的に孤独で、自分の中にしか存在し得ない。
 

その感性と美しさで頂点の人になることもできるだろうに、唯一無二の独自の世界を作り上げることができるだろうに、テヒョンさんはきっと世界に含まれることを望んでいる。自分が美しいと感じた世界の一部になることを望んでいる。誰とでも友達になりたがる。
自分の中にあるものと、理想とする世界と、外にある世界と、さらに自分を取り巻く環境とを調和させるのには、きっと苦労があったのだろうなと思います。
Veautyful daysの私の勝手な想像です。
Me, Myself, and V 'Veautiful Days' Concept Film - YouTube
テヒョンさんお誕生日おめでとうございます。
年齢を重ねていく姿を見られることを、いつまでも楽しみにしています。
 
 
 
(誕生日関係ないし妄想が突っ走りすぎてるので下書きに寝かせていましたが、まあいいか、としれっと投稿です)(全部個人の感想です)(それはそう)

お見送り

全部が早く過ぎて過去形になったらいいなと思ってる。今あること全部を早く笑って話したい。話してほしい。笑えないことも含めて笑えるようになってほしい。あのころ大変だったよねって。

 

 

 

 

お誕生日おめでとうございますいつも幸せを願っていますみたいなことを下書きに放り込んでいたが読み返したらお花畑すぎたので消した。

推しの入隊、思った以上にシンプルにつらかった
ウィバスにジンくんが写真をあげてくれたとき、そのときは意外と受け入れられたなって思ってたんですが、翌朝しばらく本気で夢だと思ってた自分に笑った。

 

行ってらっしゃい。待っています。
言えることはそれしかない。

兵役そのものを嫌だというか、まあ当然そうなんだけど、それよりもっと、手の届かない大きなものの中に行ってしまうというのがつらい。

揃って笑顔でお見送りする仲の人間がこれから2年も全員揃うことができないような外部の力なんてあっていいのか。当人たちが揃って築き上げた社会的地位より優先される力なんてあっていいのか。

アイドル業とプライベート以外のために彼が何かをする、これからの彼の行動が決められていく、そうしなければならないというのがこんなに堪えると思っていなかった。アイドルを中心に生きていてくれることを自分が当たり前に推しに求めていたこと、自分がそういうファンだったことを実感させられている。
しかも自分は何も関係がない。つらいと言う立場にもいないのだということがつらい。なんなら無事を祈る立場にさえいないかもしれない。
現状と、境遇と、自分の感情をそれぞれに全然処理できない。


ファンはアイドルを応援したり活躍を祈ることができる。それが推しの幸せにつながると、盲目的にでも信じていられた。なぜならアイドルの部分がその人の多くを占めているから。もちろんプライベートはちゃんとあるとして、アイドル業が多くの時間を費やすものであり、めちゃ現金な話で言えば収入であり、将来につながるものだから。推しの望んだ推しのためになることを、ファンはほんの少しだとしても後押しできる立場にいると思えた。

兵役は違うじゃん。まるっきり違う。違うという部分がこれから彼の全てになる。私たちのいる場所は今はない。
なのにこれもまた、ジンくんの望んだことではある。と私は思っている。
スターになっても普通の感覚を失わない人が、特例で兵役を免除されることを望んではいなかったと思う。アイドルであることより一人の国民であることを望んだと思う。
兵役を免除されたとして、そのおかげでさらにアイドルの功績を残せたとして、それはおそらく良くも悪くも一生ついてまわる。きっと今いるのとは関係のないところにまで影響を及ぼしてしまう。仮にアイドルでなくなったとしても。
私たちにとって彼は特別だけど、私たち以外の母国すべての人間にも特別扱いをさせるような、そういう境遇に彼をのし上げることを私は応援だとは思わない。
だから本当は延長という特別扱いも複雑だった。その延長した2年がわたしがリアルタイムで見ていたほとんど全てだったから余計に。この2年、音楽やエンターテイメントに関わりのない人からの必要のない注目まで集めてしまったはず。

 

安全と温かさはまじで絶対の100%大前提として、私が願うのは、どうかこの期間はジンくんが1人の国民の1人の青年として過ごしていてほしい。辛いことも多いかもしれない。それがただの1人の青年に起こる辛さであってほしい。

 

 

早く全部を過去形にして、笑って思い出話にしたい。

10月の諸々2022

誕生日の月は調子が良い、という自分にしか通じないジンクスを今年も更新した。楽しかった。


近況1

1年半くらいTwitterで仲の良いくらちゃんが東京に来るということで、時間をもらって初めてお会いした。私のあわよくばが叶い、トリちゃんとみにょちゃんの4人で。
ネットの知り合いと会うこと自体は初めてじゃないけど、2年前にこのアカウント作ったときはそんなこと微塵も想定していなかった。♰堕天使♰ みたいなHN(ハンドルネーム)にしなくて本当に良かった(大事故)。
Twitterで知っていた部分は想像通り、知らなかった部分は想像以上に全員最高で、テキスト媒体でこんな人たちと繋がれた幸運に自分で驚いてる。逆かな。テキストから知り合ったから純粋に考え方や価値観で通じ合ったのかもしれない。
4人それぞれ、パッと見のタイプは違う、構成している要素も違う、同じクラスだったら違うグループだったかもしれない。
話が尽きなかった。これ好きでしょ、これ嫌いでしょって探り合わなくても最初から知ってたみたいに話せてた。
私はこれまでの人生で好きなものにこだわることで、人間関係を限定したり偏見を持ったり持たれたりしただろうし、自分で考える自分のタイプが現状とズレててダサかったこともあっただろうけど、最近はそのおかげで仲良くなれたなという人が増えた気がする。人と気が合う、というものの不確定要素が減って「そりゃたしかに私たち気が合うわ」とわかるというか。
そういう人たちに共通しているのは、自立していること、賢いこと、普通こうでしょって言わないこと、自分の中にこだわりを持っていること、その分人のこだわりを尊重できること。自分がそうなりたいと思っていたらそういう人を引き寄せられるようになったのかな。
ついでに言うとこの3人がというわけではないけど、自己愛が強く、ほどよくしたたかで、自分の中で完結もしくは満足する幸せを持っている、なども私の好きなタイプの女の子です。

大きなファンダムでの趣味仲間という出会いは初めてだったかもしれない。
マイナーな趣味を選べばそれを共通点にして人と仲良くなれるから、大きなファンダムではその共通点が意味をなさないと思っていたけれど、ファンダムがさらに大きくなるとその中で通じ合う人と出会える、というのが発見だった。
そういう現象に社会学の名前がありそう。限定されたコミュニティが大きくなることで普遍化し、その中でまた偏向が生まれてコミュニティが細分化し、みたいな?知らんけど。

いやなんの話だ。

会った3人とは歳が7つは離れていて、計算が合っていれば自分が大学に入った年にまだランドセルを持っていた、と思うとちょっと衝撃だった。全然それを感じずに話せて良かった
良かったけど、そういうことを感じるのは年下の側だと思うので気をつけたい。年上の私が「年齢差感じなかった~」を自分で言ってはだめよねと思いました。既に思いっきり言っているが…
できればもっと年上らしくしたかったけど無理だった。
初対面の人と会うときには手土産を持参する、という大人として当たり前のことをようやくこの日学びました。(ありがとうございました。)



 
近況2

説明がめちゃくちゃめんどくせえので全部省きますと、旦那の実家に義両親+私+旦那友人2人、旦那は不在、というメンツで行った
いやさすがに省きすぎた。
義両親が田舎の古民家で週末田舎暮らしをしており、そこに義両親+私+旦那友人2人、旦那は不在、というメンツで行った。
説明を増やしたのに状況の謎さが変わらんな。
 
BBQなどをエンジョイしてサプライズで私の誕生日を祝ってもらってしまった。旦那のお祝いの気持ちも、海の向こうから現金に換わり高い牛肉に姿を変えて登場。
私はビールの6缶パックを手土産とし、肉を食べケーキを食べ、出されるままビールを飲み赤ワインを飲みチャミスルを飲んだ。
後半酔っぱらって詳細覚えていないのだけど、レコードを聴きながら「oasisを卵だとすると鶏はBeatles。ではBeatlesを卵とすると、」だとか「Queen的なバンドはなぜ出てこないのか」というような話をしていた記憶がある。義両親+私+旦那友人2人で。
好きなものにこだわり続けたおかげでこういうところに嫁げたのだろうか。
あと、「私はバンドマンと結婚したつもりだったのに今あいつゴルフとかやってる」とか「ゴルフをやるなら付き合いでやるな、せめて自由意志でやれ」等を友人(2人は旦那とバンドやってた)に嘆いてあしらわれていた記憶もある。
面倒な酔っ払いでしかない。
友人の方も1人が二日酔いだって言ってたけど人の実家で二日酔いになるのかよ。

帰りに友人の車の後ろに乗っけてもらったのも最後までおもしろい状況だなと思った。今度は2人はずっとポケモンの話しかしてなかった。私はずっと寝てた。



近況3

DYGLとHAPPYとTENDOUJIのスリーマンに行った。
コロナで溜まったライブ欲を徐々に発散できている。

先日会ったときに判明した通り、みにょちゃんも来ていたので一緒に見れた。ライブに来て、人と喋りながら始まりをそわそわ待つというのが数年単位で久しぶりだ。
「DYGLのベースの人好きで。」「え、めっちゃかっこいいよね。」という話ができたのは推し繋がりの友人ならではという感じで大変に助かる。ベースの加地さん、めちゃくちゃかっこいいんですよ……
3バンドどんな順番で出るんだろう。と私が言ったら、オレンジのマーシャル(※訂正 マーシャルではなくオレンジのアンプ)がない、シンセが準備してある、とみにょちゃんがわかりやすく予想して解説してくれた。ちゃんと合ってた。ネバヤンのスズケンさんがドラムやってるよ、とかもここで教えてもらった。全然知らなかった。
全体的に私が教えてもらってばかりでみにょちゃんに申し訳なかったけど、こういうのが不足してたなぁとしみじみ思った。こちらの言ったことにプラスアルファが返ってくる会話。趣味が近くて自分より詳しい人と話をするのって、楽しいよね…
というか詳しい詳しくない、という発想自体がそもそも久しぶりだった。趣味の部分では、最近は大学時代以前の人生に戻ってしまっている。「最近何聴いてるの」って話をする相手が父しかいない環境(私は父と意味わからないほど仲が良いです)。詳しい人に刺激を受けたり、自分が触れていないところから情報を得られる環境。
むしろそういう大学時代の人間関係が人生の例外だったのか?とも思いかけていたけど、やっぱり趣味友だちを見つけて大事にしていこう…と思いました。
要はライブ始まる前からとても楽しかったということです。

その間、私たちの後ろで男がずっと女の子をナンパしててそっちもそっちでおもしろかったな。
勝手にしてくれて構わないが、目の前で同年代のかっこいいバンドが演奏する、という空間であなたが声をかけて女の子の心が動くと思っているのだろうか?私だったら加地さんの演奏を見た後にそのへんの男に声をかけられてもじゃがいもにしか見えませんが。


近況4

人生で初めて遠征した。
東京にいると大体は東京で事足りてしまう人生。旅行も好きではないし、学生時代は交通費でお金が飛んでいくのがもったいないと思ってしまっていたし、今は猫がいるから外泊したくないし。
w.o.d.のツアーを見に長野に行った。
長野は新幹線で行きやすく、ライブハウスは駅からすぐ、土曜日、というこの上なく初心者向けな日帰り遠征だった。
私は外出は好きではないけど移動時間は嫌いではない。何かをしていてもいいし、何もしなくてもいい時間、というのは他にあまりない。2時間弱の新幹線で行きも帰りも一切何もせずに窓の外を眺めてた。一応文庫本をカバンに入れていたけれど、旅先で本を読めたことってない。
この過ごし方は理解できない人はできないだろうな。さいころから母親に「またぼーっとして」とよく言われて(父親には言われない。なぜなら私と同じ星の人だから。)いたけど、私は「本当に何もしない」をするのが得意。

余裕をもって開場の1時間ほど前に到着。
長野駅は、新幹線の停車駅なだけあり繁華街だった。旅行好きの人から見たら信じられないだろうけど、その1時間を駅前のショッピングモールで新宿にもあるようなお店を見たり、タリーズでコーヒーを飲んで過ごした。知らない土地で知っているところへ行く安心感を愛しています。海外旅行でも躊躇なくチェーン店を喜びます。
せっかく来たのにと思われるかもしれないが、本当にライブに行くことだけで目的だったから、それさえすれば他にせっかくももったいないもなかった。
一応最終の新幹線を取ってあったけど、大幅に余裕をもってライブは終了。早い時間に特急券を変更して帰宅。アンコールすらなかった…これなら長野以外も遠征できたな。というまだ見たい気持ちを抱えてzeppのツアーファイナルを楽しみに待とう。





9月10月、それから11月も、久しぶりにライブにたくさん足を運んでいて、やっぱ間違いなくライブ行くの好きだなって思ってる。好きなバンドだから行っとくとか、ライブ通ってこそ音楽好きな人間だとか、そういう気持ちで行っているだけかも、と思ったこともあったけど、コロナを経て絶対そんなことねーと思うようになった。なんだかわからないけどとにかく好きなので。
けど同時にちょっとこわい。なんだかわからないけど好き楽しい、ってことは、なんだかわからないけど楽しめない、になったとしてもどうすることもできない。
この気持ちが長い人生の中では一時的なものでしかなかったらと私は恐れている。
「若い頃はライブ好きだったんだよな。今は前ほど聴かなくなっちゃったな。」っていう大人になることを私は本当に本当に恐れている。
もしかしてそういうのって、そんな大人にはならねーぜ!みたいな気合の問題ではないのでは…?
などを考えて意識的にライブに行っているというのも、若干はあって、純粋に「好きで行ってる」ってなんなんだろうと思ったりして。






HAPPY、自由と音楽と

HAPPYというバンドを久しぶりに聴いている。
京都出身の5人組バンドで60s、70sっぽいサイケデリックロックをやっている。

ファーストアルバムを聴いてたのでそれ以来、7年ぶり。

7年ぶりともなると休止してたりメンバーが抜けてたり系統が変わってたりそれが全部あったりするものだけど、HAPPYはそのまま5人全員揃ってやってて、全然追ってなかったのに喜ぶ権利もないけど嬉しかった。
当時このバンドは傍目に見ても勢いがあってこのまま大きくなっていくんだろうという印象だったから、そのあとそういう話を聞かなかったことにあれ?とは思っていた。だからちゃんと続けてくれていたことになおさらびっくりもあった。
メジャーに行く話をやめて自主制作に戻っていたらしい。
音楽に商業面が必要なことも、メジャーレーベルにだって素晴らしい音楽はたくさんあることもわかっているんだけどさ、メジャーへ行かずに自分たちだけで音楽やり続けて、全員揃ってバンドの結成10年を迎えているバンドがいるっていうの、やっぱり最高じゃん。超ロックじゃん。そりゃ長く続けるのがいいとも限らないけど、少なくともバンドメンバーが仲良いことなんていいに限るでしょ。

そう、これも傍目の印象だけど、たぶん彼らはめっちゃ仲がいい。小中高で出会った5人らしい。雰囲気が似ている。揃ったビジュアルレベルと統一されたヘアメイクで見分けがつかないアイドルグループのやつではなく、ただ過ごした時間の長さで似たような空気をまとっている。

YouTubeに2014年のUSツアー中の映像があって、それを観ている。空気感がなんとも良い。全員がリラックスして楽しそうで、とにかくいい。
好きに動き回っているように見えて、ずっと5人揃っている。同じものに関心を向けて同じように行動している。
誰々はいつでもこういう調子で、誰々1人だけがこれに反応して、みたいな個性が(ないはずはないだろうけど)見えない。5人のパワーバランスも全然見えない。別行動でいえば唯一、「一方その頃Bobは謎のDVDを購入」とか「一方その頃Bobは謎のヘアバンドを購入」とかはあったけどその程度である。そういうひとかたまりの5人、になってる。

幼馴染だ。人間が出来上がる前に出会って好きなものを共有してきた人たちだ。1人が足を怪我したら全員の足が痛くなるんじゃないか。

 

www.youtube.com


観ていて楽しいのは、彼らがアメリカでも全然気負わない雰囲気なのもある。遊びに来たみたい。
あちこちを興味深そうに眺めて楽しんでいる。道端で拾ったスペイン語の新聞を覗き込み、拾ったクレヨンでベースケースにバンド名を落書きし、おもちゃのサングラスをみんなで買って頭に乗せる。煙草を吸う。道に捨てられていたCDを漁っている。21歳未満だからお酒はここではまだ飲めない。川で遊ぶ人たちに橋の上から手を振る。また煙草を吸う。通りがかりの人に「今夜あそこでライブするから来てよ!」って屈託なく声をかけ、CDショップで自分たちの音源を置いてもらえないかその場で交渉し、交渉し終えたと思ったら「このCDも聴いてみていい?」とすぐにリスナーに戻ってしまう。
怖いものがない、自由で、音楽を愛する5人の若者でしかないのだ。それが最高にいい。

当時結成2年。それでアメリカツアーをすることについてインタビューされ、「ただ楽しんでる、それが1番大事だと思う」と答える。
道中、機材が不調に見舞われ、寝不足のまま移動を続け、壊れたスーツケースをテープでぐるぐる巻きにして運び、パスポートを失くす。
なんでもあり、怖いものなしの若者5人だ。


若者、と思うたびに考える。
TIME誌が1966年のPerson of the Year「その年の出来事に最も影響を与えた」人物として選出したのは政治家でも宗教的指導者でも、どんな人気俳優でもなく「25歳以下の人々」だった。つまり、若者。
既存の政策、支配、価値観に異議を唱え、音楽やアート、ファッションを通じて自分たちの新しい価値観、考え方を表現し始めた若者世代の台頭がその背景だった。*1
それ以前の時代には、若者はいなかったのだと思う。子供か、大人。若者的な振る舞い、価値観、考え方、そういう生き方というものがなかったのだと思う。
大人のように意思を持ち子供のように自由に生きる、若者。
それは歴史的背景のないもので、実績も責任もなくて、純粋で、才能に溢れ、薄命で、抑圧され、軽んじられ、その分だけ自由で何にも属さない。不思議な生き物。


USツアーのHAPPY5人はまさにそんな若者に見えてすごくいい映像だった。
人生のそういう一時代、それを私は、まあ楽しかったけどそんなに素晴らしいものとは思っていなくて、でもそれをいいと思えるから音楽のことがやっぱり好きだなと思った。
逆か。音楽があるから若者時代をいいと思えるのかもしれないな。

 

W.O.O>出演の新鋭バンドが捉える、カルチャーと音楽の関係性 | Qetic

アルバムジャケットの写真が自宅って聞いて最高だなと思った。ロックバンドの理想像すぎる。

 


渋谷www xで初めてHAPPY観てきた。
絶対もっと早く行くべきだったけど、自分の中で1番楽しめるタイミングだったような気がする。思えばHAPPYが話題になってた頃、自分は珍しくメロコアが全盛期で「サイケ…ふむ…ライブ難しそう…」みたいな感じだったのかもしれん。
遂に見たHAPPYはめちゃくちゃかっこよかった。令和の日本でここまでサイケデリックやってちゃんと現代のかっこいいをやってくれるバンド、なかなかいないのでは。
もういくらでもやってくれと思いながら聴いていた。もっとどんどん観客を置いてけぼりにしてほしい。メジャー蹴るようなロックなやつらが「みんな〜!楽しんでくれてますか~?」みたいにはならんでしょ。なっていただいてもいいのですけど。
メンバーが、観客よりメンバー同士を見てる感じだった。
自由と平和と音楽を好きな5人であることが全然変わっていないことがわかって良かった。
彼らの音楽が一過性のものではなくて、ちゃんと続いているものだとわかって良かったな。音楽が若さによるだけのものじゃないことが(若さにゆえに生まれた音楽もそれは素晴らしいのだけど)嬉しい。
あとサイケデリックロックって、むしろ年季入った方がかっこよくなる稀有なロックなのではと思った。
次のアルバム出すの心待ちにしています。

 

7年前に好きになったきっかけのMVが見つからない。たしか曲はmagic。加藤マニさんディレクターのやつ。

 

 

 


*1 参照 「ロックとカウンターカルチャー 激動の3年間」室谷憲治

 

 

 

 

20221013JIMIN

手首に13という文字を入れたり、ピアスのデザインの見えないところに13という文字を忍ばせたり、ジミンちゃんって自分たちにしかわからない秘密の目印とかサインとか、好きでしょ。わたしも。

 

ジミンさんは、人と繋がることを大事にする人だと思う。

パフォーマンスだって人に伝わってこそ、人に評価されてこそ、と考える人だと思う。自分のやることをただ追求するだけ、というように自分の中だけでは完結しない。人の意見に流されるという意味ではなく、ジミンさんの世界には最初から人が、伝える相手がいる。

 

「僕は愛されたいタイプだったんです」

ジミンさんの言う「人から愛されたい」ってもしかして、人と繋がっていたい、の意味なのかな。

 

 

ストイックにパフォーマンスを追求する姿も美意識の高い世界観も思いやりのこもった考え方も、尊敬するところは山ほどあるのに、私にとってジミンちゃんはいつも甘々に可愛い人。

 

 

下を向いているとヒヨコ🐥呼ばわりされてしまうお口元。

でもねたまに、ドキッとする。こうやって伏せたジミンちゃんの目ってすごく頼りなくて寂しそうに見えるときがある。

どうしたの?って思わず心配で声をかけたくなる。もし声をかけたとしたらすぐニッコリ笑って「なんですか?」って返してくれる姿まで簡単に目に浮かぶ。

その伏せた目から、ニッコリ笑って細くなっちゃう目まで全部可愛らしい。海の向こうのアイドルだってことをあえて忘れて言えば「自分がそばにいてあげたい」って思っちゃう人なんだよ。もし友人だったら男女問わずいつも気にかけて目が離せない存在だっただろうな。

 

このvlogずっと可愛かったね。

1人作業に耐えかねて動画の字幕でアミたちに話しかけてしまうのがジミンさんらしい。

 

完璧主義。

本当に完璧なパフォーマンスで、確立していて、それなのにどこか頼りなくて危なげな感じに見えるから、どうしても私は愛おしく大事に思ってしまう。

私にとってのジミンちゃんへの可愛い、はそういうもの。

 

 

 

グループのことを、帰ってくる場所のような存在だと言っている。

どんな挑戦をしてもそういう場所があることが、人が好きなジミンさんにとってどれだけ安心できることだろうかと思う。ジミンさんの世界にずっとメンバーがいてほしい。友人がいてほしい。家族がいてほしい。

お誕生日おめでとうございます。

私たちはそのどれにもなれないけど、ちゃんと受け取り手であり続けたい。

伝わっているよ、ありがとうって声を届け続けたい。

 

20220912RM

7人がインスタグラムを去年の12月に開設して以来、ナムさんのページを1番繰り返し見ている。彼の目線を感じられるように見せてくれるのが、たまらなく嬉しい。こんな景色を見ているよと自分の後ろ姿を入れて、または直接自分で撮ったらしい写真たちで。

1人の青年であるキムナムジュン、という目線を見せようと本人がしてくれていることが本当にありがたくて、大切に感じます。
紹介するとか教えるとかじゃなくて、共有してくれている。世界的スターなのに。
あくまで1人の人間であること、鑑賞者の1人であるという目線を、常に意識して維持しているように思います。かといってカジュアルな俗っぽさで身近に感じさせるようなことはしない。不特定多数のファンに合わせるのではなく、何よりもまずRMがキムナムジュンに寄り添っているのかもしれない。だからどの投稿も等身大で身近だけどすごくこだわりがあって洗練されている。人間味というよりもっと広く、どの写真たちも有機的な空気が漂う。硬い背骨が通ったうえで、周りに温かくてやわらかくて淡いものたちをやさしく集めているような、そんな感じ。
高くするべきは意識ではなく目線や感度なのだと思わされる。
(余談だけど、共有、という言葉はここ数年で新しい使われ方をするようになった言葉だなと思う。情報というものが特別な人から来る一方通行のものではなくなって久しいこの時代、お互いに発信もするし受け手にもなるのが当たり前になった上での言葉なのかなと。「こんな情報見つけたのでシェアします~」とか私ですら普通に使うし。インターネット、いや、SNSがなかった時代には間違いなく使われてなかったと思う。余談終わり。)
 
ステージの上と個人をつなぐから、特に夢を見せるアイドルにとってSNSとの距離感は人によって様々だ。すごく素に近い部分を見せる人もいれば、あくまでステージに近いものとして見せてくれる人もいる。
ナムさんにとってrkiveがRMとキムナムジュンをつなぐような場所になっているのかな、そうだったらいいなと思う。
 

アイドルとして求められることと、音楽(ヒップホップ)でやりたいことの両立について、ナムさんとユンギさんは特にそのことに悩んできた人だと思う。
だから何かインタビューが出るたびに、そこに苦悩はなかっただろうか、何か少しでも答えを出せただろうかと私は気にしてしまう。
なぜならファンはアイドルをアイドルにすることはできるけど、アイドルではない存在にしてあげることはできないから。それがアイドルとファンの関係だから。内側から見れば絆のようなものであり、外側から見ればカテゴライズのようなつながり。

2015年のインタビューの一部で
(ヒップホップとアイドル活動についての批判に対し)いつからか僕の自我を2つに分離しました。ミックステープ[RM]のカバーを白と黒に分けたのも僕の二重的な面を見せるためでした。
と言っている。今のナムさんを見ていると、いろいろなものがグラデーションのようになっているように思う。
アイドルと音楽も、RMとキムナムジュンも。

yet to comeカムバのときのウィバスマガジンでは
僕は自然であることが好きであると同時に、個性豊かで、変わり続けて、常に新しく、ドキドキする産業の基盤の上にいるので、その二つをどう調和させるのかについてずいぶん考えます。それが逆説的に僕のメリットだと思いますし。
と言っていたけれど、そのインタビューの全体的に、グラデーションがなだらかになってきたのかなと思った。
 
ミックステープで例えると、2015年に見せたかったラッパーとしての姿と、2018年に僕がリスペクトする人たちの手をまた借りて、僕が見せたかった、僕の暗かったり憂鬱な面を見せました。でも『2022年は、僕が本当に純粋に何かを伝えようとする気持ちだけで充分なんじゃないか』、そういう期待をしています。
ああこの人はもう何段階も考え抜いて、いくつもの折り合いをつけて、自分を変えて、または変えないでここまで来たんだなと、このインタビューを読んで思っていた。アイドルと音楽とか、スターになったこれからのこととか、私が勝手に心配していてもとっくにその先を考えているのだ。
だから大丈夫だ、と安心しかけたけどそれはただ私の想像が及ぶ範囲を彼がもう考え尽くしているからなだけかもしれない。もっとその先にもいくらでも苦悩はあるはずだ。
 
 
結局は時間が経った時に、輝かなければならないと思う
何かを成し遂げたアーティストや作家たちを見ると、結局は時流とは関係のない何かを、孤独に、あるいはその社会の中で、何かを守り抜いた人たちでした。
彼がこんなにもアートを学ぼうとしているのは、自分のやっている音楽の先を考えるときに音楽以外からも学ぼうとしているのかなと思う。

これからBTSがこの世の中にどんな話をすればいいのだろうかBTSが今この時点で、どんな位置として記憶されるべきだろう
これからのBTSをどんな話として私たちは受け取れるだろうか。どんな位置に記憶できるだろうか。そんなことを考えています。
 
 
 
 
お誕生日おめでとう投稿がどうしてこんな話になっちゃったんだ。
普段こんなに真面目に考えてませんごめんなさいほとんど「結婚したい」とかばっかり考えてます。ナムジュンさん、どう考えても結婚したい。これは文字通りの結婚したいという意味での結婚したいではなくただ結婚生活を送りたい人という意味での結婚したいという意味なので本当に結婚したいと思っているけど本当に結婚したいわけではないです。意味わからなくて大丈夫です。
でもこの人の結婚したさはさぁ、わかるでしょ。

 
 
ところでずっとインスタとインタビューの話ばかりしていましたが、sexy nukimのスーツで三日三晩ほど寝込みました。正直まだ本調子ではないです。

 
 
 
 
 
 
去年の投稿の方が簡潔に言いたいこと書けてたな…

20220901JK

「クラスで一番足が速い男の子を真っ直ぐに好きになっちゃうような、」
誰のツイートかも詳細も忘れてしまったのですが、ジョングクを好きな気持ちをそんなふうに言い表していたツイートがあって、それのことをずっと考えている。
ジョングクは、クラスで1番足が速い男の子なのだ。あとたぶんドッジボールも強い。
概念です。

恋人以前の初恋以前の(未満ではなく)主人公を見つめるのに近いくらいの好きを、クラスで一番足が速い男の子に抱く感じ。自分の好みのタイプはこういう人、と自覚するよりも前に、わぁっと好きになっちゃう感じ。

私のジョングクを好きな気持ちはそういうものかもしれない。

大きな目をきらきらさせる彼の、初々しさ、愛らしさ、末っ子らしさ、健気さ、ひたむきさ、やみくもなまでの一途さ。そういうものを感じさせるジョングクの色褪せない青さ。

 

アイドルのジョングクのそういうところが大好き。

 

あとジンくんと悪ふざけしてるときの顔とか、お兄ちゃん相手に得意げな顔してるときとか、くしゃっと鼻にしわがよる笑い方とか、ゲームに回答したくて自分の名前を無限に連呼するときとか、逆に全然ルールが分からなくてぽかんとしているときとか、集中してるときの目が真ん丸になってちょっと口が開いちゃうときとかが好きです。

 

 

本当はジョングクはクラスで1番足が速い男の子なんかじゃなく(速いようだけど)、人見知りで謙虚で堅実でいつもお辞儀が深くて夢中になるとそれしか見えなくなるマルチタスクが苦手な、ただ歌とダンスが大好きな男の子だって私たちは知っていて、それでもやっぱり真っ直ぐな彼を真っ直ぐに好きになってしまう。

 

 

要領が良くてなんでもうまくこなせるように見える。すごく真似が上手くて飲み込みが早い。それを歌い方のスキルにも活かすし、ものまねしてお兄ちゃんたちを笑わせるのにも活かす。

やってみたい!と思ったらまずなんでも真似してやってみるから自分の身体を思ったように操るのが上手いのだと思う。

でも当然、ジョングクのいる世界は要領の良さだけで事足りるものではなくて、要領の良し悪しなんておそらくスタートラインの誤差くらいだ。
お客さんとしてライブを見ていてもどうやって歌っているんだろうと研究してしまう、パーティーにいても踊りを研究してしまう、練習時間という概念をなくして全ての時間を歌の練習時間にする。楽しそうに目を輝かせている顔とともにその熱心さを思い起こすと、どうしようもなく胸がぐっとなってしまうよ。

 

無理しないでほしい、というよりも、どんなにやりたいだけやっても絶対に無理にならないでほしい。全部報われてほしい。かたむけた情熱が。やりたいと思った気持ちが。費やした全部が。

情熱無く生きるくらいなら死んだ方がましだ、と身体に刻むジョングクのその情熱を、私はいつも1番に受け取るファンダムの1人でありたい。その情熱がちゃんと受け止められる場所であり続けたい。そうやってジョングクを安心させたい。

 

ARMYの皆さんを見つめて幸せそうに笑いながら音楽をやっている僕の姿、そしてそんな僕につられ一緒に笑う皆さんの笑顔が、まさに僕のProofだと思います。
(訳 Twitter @bt_bt_bts さん)

ジョングクにとってこれが自分の全てなのだと、いろいろな場面、いろいろな言葉から感じる。
自分を作り上げる年頃の大半を、ジョングクは歌とダンスに費やしてきた。それがない自分なんて考えられないんだろう。

その世界が特異なことは確かだけれど、でもだからといってそれこそがジョングクの一途さなのだと考えるのは、私は違うかなと思う。
幼少期から鍛錬することでしかその道に行けない世界も、10代半ばでプロというのも、アイドルに限った話じゃない。自分の道というのは受験と就活のときに考える進路と名前をつけられたものだけじゃない。
年若くしてこの世界に入ったことがジョングクのジョングクたる所以なのだ、のように言うのは違うかなというか。
あまりそれを彼独自の要素なのだとフューチャーするのは違うかなというか。
ジョングクのこの一途さを、若いときから練習生になってここまできたからだね、と結びつけるんじゃなくて、この一途さがあったからこそ、練習生から今ここまで来れたんだねと、私は言いたい。
なに言ってるのかよくわからなくなったけど。

それでも、ソウルに出てきた10代のジョングクがお母さんが恋しくてカップラーメンを食べながら泣いたという話の重さは変わらないよ。

練習生制度もアイドルという世界の異質さも私は全面的には肯定できないけど、ジョングクにとってその情熱を向ける先があったことが幸せなことだったと信じています。

 

 

ジョングクお誕生日おめでとう。
これから見せてくれる姿を今たくさん準備しているのだと思います。やりたいこと全部やって、なりたいもの全部になってね。