きのうみた夢どんな夢

一瞬の夏

セミが鳴いてるからまだ夏終わってない!
蚊に刺されたからまだ夏は終わっていない!!
って夏の残り香をかき集めているのが毎年のこの時期です。たまに暑い。たまに寒い。痒い。台風すごいね。
 
今年の私の夏のピークは、休日に掃除だか洗濯だかを終えた後にセミの声が聞こえてくる中クーラーを効かせた部屋のソファーであずきバー齧りながらフジロックのYouTube配信を観ていたときだったかもしれない。あっこれ本当に夏だなっていう尊さが一番だった。
暑さと思い出の大きさでいえばタイというイベントがあったけど、タイは常夏の夏だから四季の夏と私にとっては別なので。
 
夏というやつ、あんなにも豪快で開放的で明るく派手でデカくて怠惰で緩んでいるくせに、どうしてかとても繊細。
 
 
 
たまたま高校野球勝戦を見たときのことを考えている。
 
いつもテレビをつけている客先で、「どっちを応援しているわけでもないけど」と言いながらお客さんがチャンネルを回して、私も全然興味があるわけないのに、「やっぱり気になりますよね」と話を合わせて、本当に気になり出して見ていた。
 
何のためでもなくただその試合に勝つことに全てを費やす人たちがいる。それをただ青春とも若さとももてはやしたくないが、一歩下がって冷めた目で見る人間になりたいわけでもなく、数周まわって素直に、いいぞ頑張れ!というような気持ちになっている。興味関心とは別で惹かれてしまう。
この年齢で、技術の鍛錬がかなりの比重を占める分野で、全国トップレベルになるには小さいころから今までその練習を常に第一優先でやり続けないといけない。活躍している人間はほぼ100%そう。才能もあるが、その才能を開花させるには厳しい練習がいる。運の良さもあるが、運をつかむために日夜練習している。そういう意味でここにはひたむきさがあり、疑いの無さがあり、途方のない情熱がある。それを見ている。
熱い夏をお裾分けしてもらっている。これは紛れもなく夏の風物詩。夏休みに田舎の祖父母の家のテレビでやっているのを、もしくはその田舎のよく行く食堂のテレビでやっているのを、クマゼミの声とともに聞いていた気がするけど、実際具体的に思い出そうとするといつのどの記憶でもない。夏は暑いだけではない。ディストピアの世界で夏を再現するなら高校野球の声援と実況は絶対入れてほしい。
声援。吹奏楽。メガホンか何かを叩く音。球場全体が唸り、1つの生き物みたい。たまたま、敵か味方か、試合をしているか応援をしているか高校生か高校生ではないかの違いがあるだけで、ここにいる人全員が同じなのだ。
満塁ホームラン、とアナウンサーの待ち望んだ声が叫ぶ。高校野球の決勝戦で満塁ホームランを打つなんて、夢としてベタすぎませんか。それをひたすらに信じてきたんだろうな。いくら見ていてもどうして斜に構える気にならないんだろう。優勝が決まった瞬間が頂点。負けても準優勝なら充分じゃないかなんて誰も微塵も思っていない。優勝が、それ以外とは全く別物なのだ。と想像するけどあの優勝のデカさはとても想像しきれない。社会的な大きさではなく、人生における比重。
 
生中継を見ているだけなのにその場の片隅に立ち合わせてもらったような気になってしまって、リアルタイムというのは本当に不思議な感じ。
私にはこの熱気に関わるものが1つもないし、今映っているそのものにも特別な感情を持たないけれど、ここにある熱気を知っている。何かを追い求めて、この場こそが目的で、その先はなくて、世界の全部がそれになる時間を確かに知っている。自分の身体の動き思考の流れ全てがその場の潮流の一部となるような時間。
 

 

フィルムカメラって夏と相性がいいね

20220912RM

7人がインスタグラムを去年の12月に開設して以来、ナムさんのページを1番繰り返し見ている。彼の目線を感じられるように見せてくれるのが、たまらなく嬉しい。こんな景色を見ているよと自分の後ろ姿を入れて、または直接自分で撮ったらしい写真たちで。

1人の青年であるキムナムジュン、という目線を見せようと本人がしてくれていることが本当にありがたくて、大切に感じます。
紹介するとか教えるとかじゃなくて、共有してくれている。世界的スターなのに。
あくまで1人の人間であること、鑑賞者の1人であるという目線を、常に意識して維持しているように思います。かといってカジュアルな俗っぽさで身近に感じさせるようなことはしない。不特定多数のファンに合わせるのではなく、何よりもまずRMがキムナムジュンに寄り添っているのかもしれない。だからどの投稿も等身大で身近だけどすごくこだわりがあって洗練されている。人間味というよりもっと広く、どの写真たちも有機的な空気が漂う。硬い背骨が通ったうえで、周りに温かくてやわらかくて淡いものたちをやさしく集めているような、そんな感じ。
高くするべきは意識ではなく目線や感度なのだと思わされる。
(余談だけど、共有、という言葉はここ数年で新しい使われ方をするようになった言葉だなと思う。情報というものが特別な人から来る一方通行のものではなくなって久しいこの時代、お互いに発信もするし受け手にもなるのが当たり前になった上での言葉なのかなと。「こんな情報見つけたのでシェアします~」とか私ですら普通に使うし。インターネット、いや、SNSがなかった時代には間違いなく使われてなかったと思う。余談終わり。)
 
ステージの上と個人をつなぐから、特に夢を見せるアイドルにとってSNSとの距離感は人によって様々だ。すごく素に近い部分を見せる人もいれば、あくまでステージに近いものとして見せてくれる人もいる。
ナムさんにとってrkiveがRMとキムナムジュンをつなぐような場所になっているのかな、そうだったらいいなと思う。
 

アイドルとして求められることと、音楽(ヒップホップ)でやりたいことの両立について、ナムさんとユンギさんは特にそのことに悩んできた人だと思う。
だから何かインタビューが出るたびに、そこに苦悩はなかっただろうか、何か少しでも答えを出せただろうかと私は気にしてしまう。
なぜならファンはアイドルをアイドルにすることはできるけど、アイドルではない存在にしてあげることはできないから。それがアイドルとファンの関係だから。内側から見れば絆のようなものであり、外側から見ればカテゴライズのようなつながり。

2015年のインタビューの一部で
(ヒップホップとアイドル活動についての批判に対し)いつからか僕の自我を2つに分離しました。ミックステープ[RM]のカバーを白と黒に分けたのも僕の二重的な面を見せるためでした。
と言っている。今のナムさんを見ていると、いろいろなものがグラデーションのようになっているように思う。
アイドルと音楽も、RMとキムナムジュンも。

yet to comeカムバのときのウィバスマガジンでは
僕は自然であることが好きであると同時に、個性豊かで、変わり続けて、常に新しく、ドキドキする産業の基盤の上にいるので、その二つをどう調和させるのかについてずいぶん考えます。それが逆説的に僕のメリットだと思いますし。
と言っていたけれど、そのインタビューの全体的に、グラデーションがなだらかになってきたのかなと思った。
 
ミックステープで例えると、2015年に見せたかったラッパーとしての姿と、2018年に僕がリスペクトする人たちの手をまた借りて、僕が見せたかった、僕の暗かったり憂鬱な面を見せました。でも『2022年は、僕が本当に純粋に何かを伝えようとする気持ちだけで充分なんじゃないか』、そういう期待をしています。
ああこの人はもう何段階も考え抜いて、いくつもの折り合いをつけて、自分を変えて、または変えないでここまで来たんだなと、このインタビューを読んで思っていた。アイドルと音楽とか、スターになったこれからのこととか、私が勝手に心配していてもとっくにその先を考えているのだ。
だから大丈夫だ、と安心しかけたけどそれはただ私の想像が及ぶ範囲を彼がもう考え尽くしているからなだけかもしれない。もっとその先にもいくらでも苦悩はあるはずだ。
 
 
結局は時間が経った時に、輝かなければならないと思う
何かを成し遂げたアーティストや作家たちを見ると、結局は時流とは関係のない何かを、孤独に、あるいはその社会の中で、何かを守り抜いた人たちでした。
彼がこんなにもアートを学ぼうとしているのは、自分のやっている音楽の先を考えるときに音楽以外からも学ぼうとしているのかなと思う。

これからBTSがこの世の中にどんな話をすればいいのだろうかBTSが今この時点で、どんな位置として記憶されるべきだろう
これからのBTSをどんな話として私たちは受け取れるだろうか。どんな位置に記憶できるだろうか。そんなことを考えています。
 
 
 
 
お誕生日おめでとう投稿がどうしてこんな話になっちゃったんだ。
普段こんなに真面目に考えてませんごめんなさいほとんど「結婚したい」とかばっかり考えてます。ナムジュンさん、どう考えても結婚したい。これは文字通りの結婚したいという意味での結婚したいではなくただ結婚生活を送りたい人という意味での結婚したいという意味なので本当に結婚したいと思っているけど本当に結婚したいわけではないです。意味わからなくて大丈夫です。
でもこの人の結婚したさはさぁ、わかるでしょ。

 
 
ところでずっとインスタとインタビューの話ばかりしていましたが、sexy nukimのスーツで三日三晩ほど寝込みました。正直まだ本調子ではないです。

 
 
 
 
 
 
去年の投稿の方が簡潔に言いたいこと書けてたな…

20220901JK

「クラスで一番足が速い男の子を真っ直ぐに好きになっちゃうような、」
誰のツイートかも詳細も忘れてしまったのですが、ジョングクを好きな気持ちをそんなふうに言い表していたツイートがあって、それのことをずっと考えている。
ジョングクは、クラスで1番足が速い男の子なのだ。あとたぶんドッジボールも強い。
概念です。

恋人以前の初恋以前の(未満ではなく)主人公を見つめるのに近いくらいの好きを、クラスで一番足が速い男の子に抱く感じ。自分の好みのタイプはこういう人、と自覚するよりも前に、わぁっと好きになっちゃう感じ。

私のジョングクを好きな気持ちはそういうものかもしれない。

大きな目をきらきらさせる彼の、初々しさ、愛らしさ、末っ子らしさ、健気さ、ひたむきさ、やみくもなまでの一途さ。そういうものを感じさせるジョングクの色褪せない青さ。

 

アイドルのジョングクのそういうところが大好き。

 

あとジンくんと悪ふざけしてるときの顔とか、お兄ちゃん相手に得意げな顔してるときとか、くしゃっと鼻にしわがよる笑い方とか、ゲームに回答したくて自分の名前を無限に連呼するときとか、逆に全然ルールが分からなくてぽかんとしているときとか、集中してるときの目が真ん丸になってちょっと口が開いちゃうときとかが好きです。

 

 

本当はジョングクはクラスで1番足が速い男の子なんかじゃなく(速いようだけど)、人見知りで謙虚で堅実でいつもお辞儀が深くて夢中になるとそれしか見えなくなるマルチタスクが苦手な、ただ歌とダンスが大好きな男の子だって私たちは知っていて、それでもやっぱり真っ直ぐな彼を真っ直ぐに好きになってしまう。

 

 

要領が良くてなんでもうまくこなせるように見える。すごく真似が上手くて飲み込みが早い。それを歌い方のスキルにも活かすし、ものまねしてお兄ちゃんたちを笑わせるのにも活かす。

やってみたい!と思ったらまずなんでも真似してやってみるから自分の身体を思ったように操るのが上手いのだと思う。

でも当然、ジョングクのいる世界は要領の良さだけで事足りるものではなくて、要領の良し悪しなんておそらくスタートラインの誤差くらいだ。
お客さんとしてライブを見ていてもどうやって歌っているんだろうと研究してしまう、パーティーにいても踊りを研究してしまう、練習時間という概念をなくして全ての時間を歌の練習時間にする。楽しそうに目を輝かせている顔とともにその熱心さを思い起こすと、どうしようもなく胸がぐっとなってしまうよ。

 

無理しないでほしい、というよりも、どんなにやりたいだけやっても絶対に無理にならないでほしい。全部報われてほしい。かたむけた情熱が。やりたいと思った気持ちが。費やした全部が。

情熱無く生きるくらいなら死んだ方がましだ、と身体に刻むジョングクのその情熱を、私はいつも1番に受け取るファンダムの1人でありたい。その情熱がちゃんと受け止められる場所であり続けたい。そうやってジョングクを安心させたい。

 

ARMYの皆さんを見つめて幸せそうに笑いながら音楽をやっている僕の姿、そしてそんな僕につられ一緒に笑う皆さんの笑顔が、まさに僕のProofだと思います。
(訳 Twitter @bt_bt_bts さん)

ジョングクにとってこれが自分の全てなのだと、いろいろな場面、いろいろな言葉から感じる。
自分を作り上げる年頃の大半を、ジョングクは歌とダンスに費やしてきた。それがない自分なんて考えられないんだろう。

その世界が特異なことは確かだけれど、でもだからといってそれこそがジョングクの一途さなのだと考えるのは、私は違うかなと思う。
幼少期から鍛錬することでしかその道に行けない世界も、10代半ばでプロというのも、アイドルに限った話じゃない。自分の道というのは受験と就活のときに考える進路と名前をつけられたものだけじゃない。
年若くしてこの世界に入ったことがジョングクのジョングクたる所以なのだ、のように言うのは違うかなというか。
あまりそれを彼独自の要素なのだとフューチャーするのは違うかなというか。
ジョングクのこの一途さを、若いときから練習生になってここまできたからだね、と結びつけるんじゃなくて、この一途さがあったからこそ、練習生から今ここまで来れたんだねと、私は言いたい。
なに言ってるのかよくわからなくなったけど。

それでも、ソウルに出てきた10代のジョングクがお母さんが恋しくてカップラーメンを食べながら泣いたという話の重さは変わらないよ。

練習生制度もアイドルという世界の異質さも私は全面的には肯定できないけど、ジョングクにとってその情熱を向ける先があったことが幸せなことだったと信じています。

 

 

ジョングクお誕生日おめでとう。
これから見せてくれる姿を今たくさん準備しているのだと思います。やりたいこと全部やって、なりたいもの全部になってね。

 

 

 

物語や好きや信仰が必要な人たち

旅行中の話の余談。

 

予想通り、3日目くらいで音楽を聴きたくなった。
旅行に飽きたのでもホームシックでもないけど、知らない情報を浴びすぎて疲れてた。
だからBGMがほしいのではない。ただよく知っているものがほしいという感じ。たぶんそれが人によっては読書だったり日本食だったり運動だったり、あるいは必要としない人もいたり、むしろ知らない情報ばかりを浴びることが必要な人もいる。
聴き慣れた好きなものを選んでいたらどれもまるで目の前の景色に合わなくて良かった。周りではなく自分に合わせたもの、自分側のもの、自分の予測可能なものとしての音楽。思考のペースを取り戻せる感じがした。そうそうこれこれ~みたいな。

でもさすがに推しのYouTube観てたときの光景はおもしろすぎてなんか写真撮っちゃった。
背景強いな
「そういう信仰のやり方かと思った」と夫に言われたけど、私はアクスタと写真撮るタイプのオタクではないです。

 

それからたまたま完ぺきなタイミングでバンコクに帰り、たまたま完ぺきなタイミングでSNSを開いて知ったおかげで、バンコクで藤井風のrsr配信を観れたのも最高だった。風さんの弾き語り良かったですね。インターネットは実に素晴らしい。

 

 

物語を必要とする人としない人がいる、ということをたまに聞く(読書はするけど小説は読まない、とか)。
確かにカルチャーというものを必要としない人は世の中に一定数いるのだと、社会人になって思う。いや、多数派はどっちだろう。バカみたいにカルチャーをありがたがる人が一定数いる、というだけなのか。
そして自分があまりにも必要とする側だったと最近気づきつつある。学生時代は自分より詳しい人が周りにうろうろいたから、自分はそこまでそっち側じゃないように思ってた。
自分の父はカルチャー側で、しかし母は必要としない人だ。だから夫婦でそこが違うのは問題ないと思っているけど、藤井風見て「1年後にはいなくなってそう」と言った夫についてはその言葉を20年後まで覚えとけよと思いましたね(夫へ、これは言質です)。

 

 

 

 

猛暑のバンコクルンピニー公園にいた最高の猫見て。

ずっと寝てた。

 

 

 

私は旅行に限らず写真が好きで、こういう旅行中などは息をするように撮ってしまう。特に街を歩いていれば網膜をレンズにして瞬きがシャッターになってほしいと思う。今回6日で700枚撮ってた。
けれども食べ物の写真だけは「撮ったところでどうしようもないし」と撮らない。他の700枚をどうしようもあると思っているわけでもないのに。
こちらは今回食べた中で1、2位を争う美味しかったカオマンガイ
他の写真と変わらず真剣に撮っているんです。「遠くない?」と夫に言われる。
私もそう思う。
心理的距離かな。
興味の無さがここまで表れる写真になるのは、逆に撮影者としての腕が確かなのではなかろうか。
食べ物の写真って、食べなければ美味しいかわからないし、食べてしまうと撮れないのに、「美味しい!」という感動をどうやって撮ればいいのだろう。

などと考えているがそもそも私は食べ物を美味しそうにも素敵にも撮ることに正直言って興味がない。なぜなら食べ物に興味がないから。インスタグラム等々で友人たちの食べ物投稿を見るのは全然好きです。喜びだったり日常の一コマだったりするから楽しい。みんな、私の分まで食べ物を美味しそうに素敵に撮っておいてくれ。

 

 

食べ物のある景色自体は好きで撮る。

 

 

700枚も撮ってなんのために?と自分でも思いながら、やっぱり趣味ってそういうことだと思う。
自分の中での趣味の定義は「それをすることそのものが目的」とか「その先が動機にない楽しみ」というようなものだ。
さらに厳密に言うと自分の中の“好き”と“趣味”の違いは「それをするため、極めるためのコストを疑いなくかけられる」かつ「その多寡を人と比較しようと思わない」なので、そういう意味では写真はただ好きなだけ、なのですが。
そして、自分のその定義に当てはめて趣味だと言えるものが「音楽を聴く。好きな音楽を増やすために、情報収集や知識をつける努力が常にできていると思えないと気が済まない。」ということしかない。私には好きや興味関心は多いが、趣味、といえるほどのものが少ない。

(という定義は置いておくとしても)趣味にはインプットとアウトプットの両方あると言われ、アウトプットというとたとえば創作したり身体を動かしたり、インプットというと鑑賞などになるのだろうけど、私のアウトプットなんてインプットの感動の外部出力みたいな感じだなと思う。写真も文章も。

アイドルを追っかけることも、手間も金銭もコストをかけられる(大抵かけすぎる)わけだけど、ちょっと違う。アイドルオタクという行為、“好き”とも“趣味”とも別物というか、究極に突き詰めれば、信仰…?

 

 

本物の信仰であるワット・アルン(と、妙にマッチした私の服)。暑すぎて顔死んでた。

 

 

日本人旅行者は少なく、英語もろくに、タイ語はまるきり話せない私にとって、このタイ旅行は言語情報が極端に排除された数日間だった。ここに3000文字書きながら言うことでもないが、たまに言語情報から解放されるってすごくストレスフリーかもしれない。
田舎の家で1人でデジタルデトックスでもしてみようか。キャプションのないインスタとピンタレストのみ可。そこで一気に世界文学全集とか読むと乾いたスポンジのように吸収できるんじゃないかと思う。
お坊さんの修行に一定期間人と口をきかない、というものがあるらしく、やってみたいとは言わないが前後で人はどう変わるのか興味がある。
 

知らない言語の話者たちを眺めていると、言語とはなんと妙なツールだろうかと思う。
声帯を振動させて舌や口唇等の形で変化をつけた音声記号によって思想、感情、意思他を伝達するという行為を駆使して社会性を発展させた人類すごい。明らかに身体の一部分だけを複雑に活用しすぎてる。

 

気分を高める意味でも、出発前に少しだけタイ文字を覚えた。ご飯食べながらYouTubeを見ていた程度ですが。意味は諦め、文字を音声変換することのみを目指したけど、実際行ったらポップなフォントの読めなさに発狂した。
タイ文字は、ローマ字のように母音と子音のつくりなので読み方だけであればそこまで特殊な難しさはないと思う。発音はかなり難しい。文法に至っては未知です。
ハングルのおかげで日本語とアルファベット以外の文字を読むハードルがぐっと下がった気はする。タイ文字はハングルより種類も例外も多いので順番的にも良かった。読み方がころころ変わる表意文字と2種類の表音文字が混在する極東の島国の文字に比べたら全然とっつきやすいでしょうよ。
言語を知るということ、私は結構好きなのかもしれない(前述の自分の定義に当てはめれば、確かに趣味ほどではないけど好きではある)。会話をしたいというより、模様が文字に見えてくる過程がとにかく楽しい。未解読文字の研究者の気持ちもわかる。

駐在員というのはその気がなければおそらく日本語と英語とあとは翻訳アプリでなんとかなってしまいそう。夫はタイ語会話をかなり習得していて感心した。覚えた単語や発音はすぐに試したがり、そういうトライアンドエラーの苦労を厭わないのは尊敬する。
頼りすぎて私の脳みそはほとんど回っていなくて、そんな難しいタイ語わかるの?と驚いていると「今の会話は英語だったよ」と言われることが多々あった。負けじとタイの単語1つ教わるたびにハングルの単語1つ教えてたけど全部聞き流してくれた夫には感謝しています。
自動翻訳がどんどん進化しているのに外国語を習得する意味は?という意見もあるが、私はただおもしろいだけなので関係がない。便利なのでそっちもどんどん進化してほしい。
それに「自動翻訳があるから」というその発想は「検索すればわかるから勉強しなくていい」という発想に近くてちょっとこわいなと思う。
あと自動翻訳で思い出した関係ない話だけど、早くAIが進化してロンゴロンゴ文字とヴォイニッチ手稿が解読されてほしい。

タイ旅行記

仏教と象とココナッツの南国、タイ旅行🇹🇭
せっかくなのでお役立ち情報っぽいものは最初にまとめます。タイの情報を期待してくださっている人はこの箇条書きだけ読んでいただければ大丈夫です。
 
・英語は結構通じる
・英語表記多いからタイ文字読めなくても不便ない
・トイレの紙流せないけどきれいなところ多い
・カンカン照りより曇りの方が多いらしい
・雨期でもたまにスコールが来てすぐやむ。日本のようなしとしとの「雨の日」はないから観光はできる。
・当然めちゃ暑い。露出多めで浮かない。空調は冷えてる。
・路上の屋台飯は衛生面が心配…な人はデパートとかショッピングモールのフードコート楽しいのでおすすめ
・東南アジアの街並み好きな人はヤワラート行け
・1番やばいとこ行きたいならカオサン通り
・カジュアルに大麻売ってるからどっかで匂いだけ覚えると良い
・変なとこ行かなければ女性が夜1人で歩いても平気そう
・チップ文化はそんなにないらしい。優しい人ばかりだったのでそのへんは気持ち。
セブンイレブンバーガーキングとマックとスタバめっちゃある
・タイティー美味しかった。甘いミルクティー。いろんな店で頼んだけどどこも美味しかった。
・どこもかしこもパクチーと唐辛子まみれというわけではない
・ワクチン証明書は英語表記がないと使えないっぽい(これは後述
情報は以上です。

 
 
 
1年半くらい前から夫が海外赴任してる。バンコク、時差はマイナス2時間、飛行機で羽田-バンコクが6時間。
期間は3~5年でコロナ禍で当分帰れないかも、と盛大に友人たちから見送られながらも半年くらいで一時帰国したりGWに帰れたりしてたけど、こっちからはついにようやく行くことができた。ついでに私は初めての一人国際線である。(旦那との再会とか海外赴任とかについては旅行記なので割愛します。)
 
どちらかというと、私は旅行が好きな方じゃない。まず外出が好きじゃない。どうせ行ってしまうなら国内旅行より海外旅行の方がいいという0か100みたいなところはあるけど、できれば0でいさせてもらいたい。
これはわかる人とわからない人がはっきり分かれるのだろうけど、外出中「帰りたい」の気持ちがどこかしらにある。どんなに楽しくてもそれと相反しない独立した気持ちとして、強まったり弱まったりしつつも常にある。

羽田空港に向かう。JRとモノレールを使って行く。浜松町まで乗るJRの車内は、身軽な装いの人ばかりいる。ここにいるほとんどの人は、昨日と明日と変わらない1日を過ごすんだろう。今日の夜には自宅に帰るし、手に持った荷物はしかるべき場所に納めるし、今着ているものはその日に家の洗濯機に入れたりできるのだろう。そうでなくても今の私よりはそれに近い。羨ましい。私は非日常が嫌いと言うよりは日常が好きすぎる。
モノレールに乗り換えるところから人がふるいにかけられていく。大荷物の人が増える。羽田の第3ターミナルで降りればさらに限られた人ばかりになる。自分が相応しい場所にいる気がして、少し落ち着く。あと空港って勝手にちょっとテンション上がるよね、デカいから。
 
チェックイン。チケットやパスポートとともに出したワクチン証明書が、英語表記がないので使えないと言われる。案内されるがまま空港でPCRを受けることになった。マイナンバーカードの有無を聞かれたのでそれがあれば違ったのかもしれない。マイナンバーって海外でそんな効力を持っているんですか。
クリニックの開始は9時、開始直後から激混み、フライトは10時半、10時5分までは待てます、とカウンターで告げられる。初の一人国際線、いきなりのトラブル発生である。
緊張感溢れるその場の夫とのLINE。
私はこういうとき、焦っても何も変わらないなら焦っても仕方ないか、と思ってちゃんと焦らないでいられるお得な性格をしている。待ち時間に展望台へ行くなどをして過ごしていた。現地でやきもきするしかできない夫の方がむしろ不憫である。
まあ間に合ったのでこうして書けるんですけどね.
陰性証明書、全部英語だったのでパッと見でピンとこず、たぶんこれですよね…?な顔して持って行ったらカウンターの職員の女性が「よっしゃ!!1人クリア!!!」な顔で走ってチェックインしてくれました。空港は閑散としている反面、業務はめちゃくちゃ大変だろうな。
 
機内食でははっきり「チキン」と答えたはずだけれどフィッシュが提供された。そういうベタなやつ、嫌いじゃないです。チキンとフィッシュどっちが嫌ですか、と聞かれてたんだろうか。
 
フライト6時間はあっという間だ。国際線の機内といえば映画だけど観たいのがなくて、音楽のコーナーからエルトンジョンとoasisと藤井風の1枚目のアルバムと、それからBTSがBEだけあったからそれらを聴いていた。機内のペラペラのヘッドホンではろくに聞こえないから聴き慣れたものしか聴けない。
6時間飛んで4時間後に到着するタイムスリップをする。まだ経験したことないけど12時間以上の時差ってもうわけわかんないんだろうな。時間というのは前後の流れか、あるいは周りと共有してこそ意味があるらしい。
 
到着して空港に降り立ったあたりで完全に気が抜けていた。
私は今foreignerや。などと呑気に思っていたところで、自分がこのあとどっち行けばいいのかわからない状態になっていることにはたと気づく。いつのまにか前後を歩いていた同じ便の人もいなくなり、周りには出国だか入国だかトランジットだかもわからん外人しか見当たらない。外人は私か。空港の中を一往復してからインフォメーションのお姉さん(タイ美人)に「どこ行けばいいかわかりません」「これ(航空券)乗って今着きました」「荷物受け取りたいです泣」等々をカタコト英語で伝えるとなぜか伝わり「まっすぐ行って右、arrivalに行け」「え、じゃあtransfer deskとかは…?」「ノー お前はarrival」と教えてもらって何とかなった。落ち着いて考えれば当たり前なんだけど。異国で迷う恐怖は底知れないな。ありがとうお姉さん。私は無事に旅を終えました。
 
旅行、という時間はおもしろい。自分の社会的立場がなくなるとは言わないけれど一旦それは傍に置かれ、全員ひっくるめて「旅行者」という人間にされる。ただ運ばれ、案内され、受け取るだけの存在になる。
 
タイは南国の熱気と人々の熱気にあふれたところだった。
やっぱり南は最高。外で寝れるし果物がそのへんで実る、そういう「最悪でも死なない」場所はどうにも空気が気楽だ。
日本の桜やケヤキのようにヤシの木が生え、みかんがなるノリでバナナがなっている。街は要所要所に王族の肖像が金の額縁で祀られている。国営施設のようなものがここでは王営らしい。
西洋に征服されずに国王が君臨し、そこらじゅうにある果物や海岸を外人がありがたがってくれる、この国の人は基本的に幸せそうだ。もちろん順風満帆ではないはずだけど自国の歴史や文化を否定せずに近代化できるのは幸せなことだと思う。寛容で鷹揚、誇り高く、インディペンデントで、切羽詰まったところはなく逞しい。大陸的なオープンさがあり、激しい自己主張はない。
 
 
 
バンコクでは夫の住居に滞在できるけど(「夫の住居に滞在」ってすごい限られたシチュエーションの日本語だな)、そこから足をのばし、飛行機で1時間飛んでサムイ島というところへ来た。人生初のプロペラ機だった。めちゃ揺れる。
はりきってTシャツ短パンという格好になったはいいけれども空港の空調がガンガンで、久々の短パンに足が冷えること冷えること。暑いのにサムイ島など言う余裕もなく道中普通に寒かった。
 
サムイ島、タイ語でコ・サムイは、マレー半島の東側にある、ヤシの木に覆われた賑やかで穏やかな島。
さまぁ~リゾート的にレビューすると砂浜の砂は白くてさらさら、ハイシーズンの波は始終穏やかで、水は透き通り、ホテルのシャワーの水圧もばっちりだった。
旅行者の9割は欧米人だった。中国人はまだ自国の規制があるらしい。
肩や鼻の頭を日焼けで赤くした白人たちが、大抵はいくつかの家族や親戚のようなグループ、男女混合の若者グループでリゾートを謳歌している。向こうの人はバカンスを長くとるから連れ立って旅行することは日本より多いんだろう。
みんな良いところのファミリーに見える。中には平社員のダディとマミィが頑張って来ている人もいるんだろうか。私のそれらはほとんど映画で見たイメージでできている。
人生でこんなに一気にアングロサクソンばかり見たの初めてだった。ティモシーシャラメくんみたいな男の子とエルファニングちゃんかセレーナゴメスちゃんみたいな女の子がめちゃくちゃいる。骨格が違う。

ホテルは将来の天国はこれがいいの圧倒的No1だった。きれいなものしか存在しない穏やかな景色。きれいも汚いも内包した現世のきれいな景色とは違うこれは私の天国の概念。夏が嫌い、北国が好き、という人のイメージする天国はどんな感じなのか聞いてみたい。

 
この国で過ごしているとなんだか物事をシンプルに考えるような気分だった。
瓶に入ったガソリンをどぼどぼ入れるとエンジンが動きバイクが走る。何人であろうとバイクに乗っかれれば移動ができる。日が照って植物が実をつけ食べられる。店を開けて物やサービスを売る。客が来なければ座って待つ。
老若男女が路上でプラスチック製の椅子に座って過ごしている。食事をとる人々、談笑するバイタクのおじさん、店番のおばさん、スマホいじる若者。

ここでは路上という世界がめちゃくちゃ広い。屋台もテラス席もその他も。他に場所がないから路上にいるのではなく路上があるから路上にいる。路上で生活しているのではなく生活に路上がある。建物の間口は広く、当たり前だけど積雪おろか北風という概念はない(あと地震という概念もない)。
外の空気がそのまま生活の空気。
こういう簡素さに安心感や好感を覚えるのは、馴染みの九州の田舎に近いからなのかもしれないし、子供でもわかるシンプルな範囲で物事が動いているからなのかもしれないし、子供の頃に思い描いた世界の形に近いからなのかもしれない。難しいことはわかりません。いいものがいい。
まあこれは私が複雑なことを知らないでいられる旅行者だからというのもある。
これにハマる人の究極は自給自足の生き方に憧れそうだ。でも私は資本主義社会と文明社会を信じています。
 
 
 

話に聞く通りバイク大国だった。
ママチャリの比ではない。ゆりかごから墓場までの間に全員原付がある。
当たり前すぎて誰も深く考えていない。原付で60キロで走ってても後ろから原付が追い越してくる。対向車線をお父ちゃんお母ちゃん子供の家族3人乗り全員ノーヘル原付がすれ違ってくる。マスクでノーヘルのおっちゃんもいたし、フルフェイスもいた。膝丈スカートのおばちゃんや女学生が横座りでバイタクの後ろに座ってスマホを見ている。中でも後ろの人がちゃぶ台くらいのテーブルを両手で抱えて走ってたバイクに一番笑った。なんでバランス取れてるのか全然わからなかった。そういうのなんですよ、そういうの。みんな体幹がバイク仕様。
 
 
これも噂に聞いていた通り美容大国でもあった。
みんな痩せているのは暑いから、とか思うのは雑すぎるか。スタイルの良さは大陸的なものもあるんだろうか。少なくとも正座の民族とは違う。
男性が化粧品のイメージモデルになっているのもちょくちょく目にした。そういうのまじでどんどん流行ってほしい。昭和の男のかっこよさだって好きですけれども、美容に気を使う男がダサいって空気はダサいから早いとこ滅びねぇかな。真面目に勉強するのダサいっていう中学生のダサさと同じに思える。正しいとか善悪の話ではなく、ただ個人的にダサって思ってます。
タイコスメは韓国コスメみたいに日本でも流行りそうだと思ったけど、おそらくタイの方に日本市場が眼中にない。
やっぱりタイコスメ買えば良かった。可愛いものがいっぱいだったのに迷いすぎてやめてしまった。私には買い物の才能がない。免税店も行き帰り素通りしてしまったし。正社員子供なし30代女性が3年ぶりの海外旅行で免税店を素通りするなよ。
 
 
 

ヤワラートというチャイナタウン。こういう街並みが大好きな私のような人は絶対行ってください。
 
 

バンコクではカルチャーショックよりも発展途上の国の空気にギャップを感じた。
余力というか余白、というか余地がある。始める余地。改善の余地。取り入れる余地。ショッピングモールは綺麗で、チャオプラヤ川はカフェオレ色で、ベンツやBMWも通る路面はカジュアルに穴空いてて、ビーチでボランティアっぽいゴミ拾いの人たちがいたけど拾ったゴミはそこで燃やしてて、年季の入った市場の奥で小さい子がスマホを弄っている。古いものと新しいものの共存、というのがこちらとまるで意味が違う。
至るところで新しいものが作られどんどん入れ替わっている
日本のこういう時代に育って恩恵を受けた年代はもはや外人だと思った方がやりやすいのかもしれない。
考えてみれば、東南アジアでオリンピックってまだ開催されていない。いずれそういうもので一気に変わるような気がした。今見られるものを楽しんでおきたい。
例えばやばい電線とか。
逆になんでこれで平気なんだろう。
 
これぞ東南アジアみたいな偽ブランド品が欲しかったけど、いいのがなかった。シンガポールで見た「BIRKENSTONES」というサンダルを買わなかったこと、後悔しています。(ネットで探したらあったけどネットで探してあるなよ)。私には買い物の才能がない。
一方でオーガニックみたいな表示も結構見る。動物実験をしないタイコスメもいくつもある。大量生産大量消費時代とは既に違う発展なのかもしれない。顧客は商品を選別しているようだったし、欧米信仰もそこまで強くないように見えた。
 
 
旅行好きじゃないけど、これからも暇さえあれば外に飛び出すような人間にはならないのだろうけど、行って良かったとはちゃんと思っている。見たことのないものを見、知らないことがあることを知り、定期的に(つまりあらゆる年齢で)常識をひっくり返されてどひゃ〜みたいな経験をしている人間でいたい。その上で日常と私は言う。
自分の中にあるものでしか物事は考えられない。だから見聞を広める必要があります。
私の最推しこと夢眠ねむ氏のアイドル時代のツイートなんだけど、どんな人生でもこれを常に忘れたくないと思っている。知っているだけでも経験したことがあるだけでも充分じゃなくて、それは相互に関連し影響し合っているんだと思う。
 
 
 
帰りは6時間乗って8時間後に着くタイムスリップをする。
夜の空港、というのは夜行バスや寝台列車にも近いようなトリップ感があった。
離陸してすぐ機内は消灯し、飛んでいる飛行機の中にも「就寝時間」があるのだと私は後から気づく。通路側の私と窓側の席の女性で、お互いに真ん中の空席にちょっとずつ体をはみ出させて少しだけ寝た。機内で夜明けを迎えるのは初めてのことでずいぶん不思議だった。窓側の女性が窓から見える夜明けをカメラに収めている。濃いオレンジ色の影絵のような夜明け。そしてまた静かに毛布にくるまる。朝になったのか朝に到着したのか、この場合はどちらなんだろう。飛び続ける機内にも朝とか夜とかあるんだろうか。12時間、夜から夜に飛んだりすることもあるんだよね。消灯された電気が灯り、機内は生活として朝になる。
オムレツ、と伝えたら今度はちゃんとオムレツがもらえて、それを食べながらペラペラのイヤホンで行きと同じようにBEを聴いていた。なるほどbreakfastだからオムレツなのかと改めて朝を理解。Life goes on、聴きすぎて最初のグクとジミンちゃんのパート諳んじれるなと思う。6日間ずっとリラックスして楽しんで美味しいものだけ食べて快適だったけど、やっぱり緊張してたなぁと思う。明日から(既に今日か)また一人暮らしか、とも思う。何があってもlife goes on なのだし、人生はダイナマイトだ。
音楽を聴きながら「これを聴きながらこんなことを考えていたということ、忘れないだろうな」と感じることがごくたまにあるでしょう。このLife goes onはそれだろうなと思った。
 

20220613

恒例の家族写真を見たら頭の中が「好きだなぁ」の感情ばっかりになった。

 

好きだなぁ

 

結局のところ、推しへの感情に「好き」より一次的なものはない。
憧れとか、尊敬とか、誇らしいとか、そういう上の方で光っている感情を見上げすぎて疲れたり、それに追いつこうと焦ったりしていたときに、足元にある「好き」を思い出して、そうだやっぱこれしかないじゃんねって、思い返して始まったフェスタだったな。
よいというもの、すばらしいというもの、それは世界で起きていることで、他人が決めていることで、でも「好き」だけは私が決めるものなのだ。私がいなければその「好き」は起こりえないのだ”(好きの因数分解最果タヒ
最果タヒさんのエッセイの一節。
私は私の好きなもののことがめちゃくちゃ大事で大好き。
 
何を見てもヤバいかっこいい好きで終わらせるわけにはいかないけど、思いや考えを知り、作品への理解を深め、置かれた境遇を想像し、必要があれば声をあげ、正しく応援するすべては「好き」でなければできない。土台でありスタートであり核である。好きで思考停止しちゃうこともあるけど、好きだから発展もさせられる。
 
 
今回のカムバもフェスタも、公式がたくさん昔を振り返らせてくれてて、その頃を忘れてないよ地続きだよと言ってくれているんだなと思った。そういうファンの声も分かっているんだろう。
 
私は自分が好きになる前の推しを、どういう好きになりかたをすればいいのか、よくわからないことがある。
この頃にこんな最高なのがあったなんて知らなかった!もっと早く見つけたかった!というパターンもあれば、今があるから過去も好きになる、というパターンもある。
要は私は、Dynamiteがあったからこそ今dangerやピッタンヌンやFireだって聴いている。私が2014年に(当時の最推しがすべてだった頃だな)サンナムジャを聴いたとしてファンになっていたか、というと残念ながら絶対なっていないんですよ。あぁK-popか、で終わっていたんですよ。DNAやBWLであれば違ったかもしれないけど、結果から言えば私はどうしようもなくダイナマイト新規だ。それで今さら手のひらを返すみたいに昔の曲も好きっていうのはどうなのか?そういう引け目と負い目が勝手にある。あくまで勝手に。
一方で、リアルタイムで花様年華を追うのは無理だったとは思う。アイドルに限らず、私は負の部分で共鳴するようなコンテンツが苦手。
それらのトンネルを抜けた今の彼らが好き。別に、大事なのはこれまでじゃなくてこれからだ!とかいう単純なポジティブではない。今の彼らだけが好きなんじゃない、花様年華やwingsを経た上での今の彼らだから、ここまで好きになった。
最初からDNAやBWLで鮮烈デビューしていたとしたら(それが可能かは別として)、今の彼らの見え方は全然違うだろう。
私の好きなBTSは「花様年華やwingsの頃からのBTS」ではないかもしれないけど「花様年華やwingsを経たBTS」なのだ。それらの過去を含めて今の彼らが好きなのだ。今の彼らだけ、彼らの今だけが、好きってことじゃない。
そして同じように、今の彼らがあるからこそ、つまりトンネルを抜けたって知ってるから花様年華やwingsも安心して聴ける。素敵な年の取り方をしてるのを見ているからこそ、デビュー当時から聴ける。
Young Foreverをコンサートのサプライズでファンに合唱してもらって涙して、あの頃はつらかったとこぼし、そのときのファンの合唱を入れた曲を作って聞かせてくれる。
その先があるんだろうって思える。未来を、というか先のことを期待させてくれるアイドルなんて、私はなかなか出会わなかったんだよ。
スタート地点なんて全員違うけど、今、好きな私たちを並走させてくれててそれを本当にありがたいなと思う。
みたいなことを自分の中で納得したりして迎えたカムバとフェスタだった。
 
好きしかないんだ!でもその好きってな~に?をぐるぐる回って目を回して大の字になってとにかく好きは好き!!!みたいな感じ。今は。
 
 
 
好きだよ~!と愛を込めたお花畑ブログになるはずが、なんでこんな内容になってるんだ。
 

好きだよ~!
 
好きになった理由はいろんな側面にいくつもある。
たとえば音楽性。
hip hopという音楽ジャンルを、それまで不良っぽいやつかサブカルしか知らなかった私にはバンタンがすごく新鮮に見えた。ごりごりのブラックミュージックとも違う、邦楽ほど身近すぎる音楽とも違う、もちろん単なるポップソングとも違う。真正面からポップミュージックをやっているけどめちゃくちゃ個性出してる。アイドルにしか出せない多幸感も詰まっている。売れ線ではない上質なポップミュージックだと思った。すごく新鮮で洗練されて聞こえた。
 
例えばメンバー。
これはまだファンになる前、ただ顔がいいな〜って思ってYouTube見始めた段階なので一切の贔屓目無しのつもりなのですが、パフォーマンスの動画を観て、お互いのことをなんて優しい目で見るんだろうと思った。
このときの動画とかさ。

本当に顔の区別もつかなくて、可愛い印象だったから長男と次男を年下だと思って見てたくらいの頃。アイドルがメンバー同士で本当に仲が良いなんてそうあることじゃないと思ってたから(全部がそうとは言わないけど)、落胆したくなくてめちゃくちゃ疑心暗鬼に見てたけど、どんなコンテンツも見れば見るほど本当に仲が良いと思うしかないことばかりでした。
 
私は彼らに学ぶことがあまりに多い。
そんなふうに優しい目で相手を見るのとか、移動中や作業中にふと他の人を気遣う自然な仕草(ちょっと手を添える程度の、でもそれすら私はやってないこと)とか、自分と相手の区別がないくらい当たり前に分け与えられるのとか、何かしてもらったときごめんじゃなくてありがとうがたくさん出るのとか、湯水のように誉め言葉が出てくるのとか。
大事な相手にはこうやって接すれば良かったのか、と毎度思う。
自分の中の良い発想や善みたいなものの引き出しが彼らで増やされてる気がする。私が悪人だったわけじゃないけど、照れとか意地とか「別に私に思いやり持たれたところでね」みたいな卑屈さがあって、それを自覚しないまま生きてるうちに引き出しの少ない人間になってたんだろうと思う。
好きの最上級じゃなくてそういう意味でもう好きになる前には戻れないや。
 
 
ダイナマイト新規ではありますけど、ダイナマイト古参だなんてマウントとっちゃうくらいまで応援するつもりしかないからね。
 

 
大好きでしかない人たち~
9周年おめでとうございます。
 
 
 

タトゥーを入れた話

話、っていうかまあ弁明です。
 
賛否両論あるのは嫌というほど分かっているつもりですし、合わないなと思ったら無理に読まなくて大丈夫だから、そっとさよならしてね…
 
【先に追記】
ピックアップ?に載せてもらってしまって、今さらこの投稿読まれていてビビり散らかしています。
タトゥー論争に一石を投じたいわけではないし、反対派を説得するために書いてはいません。墨を入れたことで身体を慈しむことができる人もいればノリで入れて後悔する人もいます。タトゥーって実はこんなに最高なんですよって投稿ではありません。
これは私個人が、「やりたいけど無理に決まってる」とずっと思っていたことをその気になればできるのだ、と思った話であり、それは人によっては例えば仕事を辞めることかもしれないし、移住することかもしれないし、ピアスをあけることかもしれないし、犬を飼うことかもしれないし、オーディションを受けることかもしれないし、タトゥーを入れることかもしれない。
私は自分の基準を自分で決めることができるのだ(まあできる範囲だけではあるけど)ということ、それは別に「ルールに縛られない!」的なことではなく、自分への決意表明として。という話。
【追記終わり】
 
 f:id:harunonegoto:20220409213841j:plain
二の腕にホワイトのレタリング。まだ赤みが引いてないから傷っぽいけど、定着すると白というかクリーム色がかった感じになる。
愛おしい。既にめちゃくちゃ愛着がある。
完全に個人的な意見ですが、全員がそうとは言わないが、タトゥーを入れている人って自分の身体を慈しんでいるように見える。
私のただの二の腕も、大事な二の腕になってしまった。
 
 
タトゥーもピアスも整形も、元の形を変える、戻せない変化、ということへの否定的意見があるんだろうと思う。
とすると化粧や染髪はパーマは、となる。
改造と改良の違いは、とかも。
元に戻せれば整形もいいのか、とか。
眉タトゥーは、とか。
化粧は良くて整形はアウトの線引きにも私はかなりいろいろ思うことはある。
 
タトゥーも部位に寄っては消えてしまうらしいです。彫り師さんがご自身のフィンガータトゥー見せてくれたけど、消えかけのカラーペンの落書きかというほど薄くなってた。次は指にと思ってたけど迷うな…
 
消えるんならいいってもんではないだろというのなら、物理的な話だけでなく社会的なこともあるだろというのなら、それはもう価値観とか印象とか、正解のない話になってくる。たぶん反対の人はタトゥーを入れるべきではないということのみが正解なのだろうけど。
正解がないなら、自分のことは自分で正解を決めていくしかない。あえてそこで多数派ではない正解を選ぶなら、結局これはそういう話だ。
 
 
「親からもらった身体に」という話が言われる。確かにそれが身勝手な行動の歯止めになる考え方なんだろうというのは分かる。
一般論としても自分の両親についても、自分の身体が生物学的にも経済的にも社会的にも親からもらった、というところに異論はない
でもここで言われるもらったものとは、物理的な身体というよりもはや人生全般のことではないかと思う。
人生を大事にするってそれはもう、やりたいことやる、が一番最初に出てきたんだよね。もちろん貯金とか心身ともに健康的な生活とかもしますが。
 
そもそも自分の価値観にそぐわないものを「お母さんが見たら悲しむぞ」とでも言うような、デカいところから説得力を持たせて言われたくはない。
 
 
自分一人の身体に入れたという私の個人的な話で、タトゥー反対論そのものと議論をするつもりではないです。
ただまあ一応考えたつもりではあるんですよという…だから弁明でしかないんだけど。
 
 
 
 
どっかで見て、なるほどな、と思ったタトゥー反対意見が2つある
 
1つは「将来年を取って介護される自分を想像してみてください。その身体にタトゥーがあったらどうですか?」みたいな話だった
確かにそういう考えもあるなとは思ったけど、私は逆にそれ超いいじゃんと思っちゃった。かっこいいと思っちゃうな。私は元からおばあさんがしわしわの手に派手なアクセサリーつけてたり、煙草吸うのを素敵だと思っている。そういう年寄りになりたい。
もしかするとそうではなく、昔イキっていた人が今では介護されるお年寄りに…って状況が嫌じゃないですか?みたいな話だったのかもしれないけど、だとすれば双方に失礼では。
あと介護されるほどに年齢を重ねてもなお「タトゥーを人にどう思われるか」とか気にする精神だったらそれも問題。

もう1つは、
「考えというのは日々変わっていくものなのに、ずっと変わらないものが身体に刻まれていることの違和感(でタトゥーを消した)」という話で、これは私にも一理あるかもしれない。
未来永劫後悔しない保証なんて何に対してもない。
身体に刻みたいほど大切、好き、といくら思ったっていつかは今のように好きではなくなるかもしれない。でも、めちゃくちゃに好きだった、という事実そのものが変わることはなく、そういう意味でそれが自分の中で無意味になることも無価値になることもないのだと思う。タトゥー云々以前に、自分の好きなもの全部に対してそう思う。
(入れたのは最近熱を上げている推し関連ではないです。)
(あと恋愛に関してはこの限りではないと思います。)
何しろ人生1回目なので入れたことそのものを後悔しないなんて言い切れないけど、内容については後悔しないと自分の中では言い切れていて、だからいいと思った。
うーんでも伝えるために言語化しといて、自分の中では、なんて結論にしちゃうのもダサいよな。
 
誰にも迷惑をかけない自分の身体のこと、という話でありながら、人の目が関わる話でもある。人に何を言われても迷惑をかけない範囲でやりたいことやるぞ、というつもりでいながらあわよくばその心意気込みで賛同されたいという感情も認めなければならなくなっている。そうでなければこんなところにわざわざ書かずに黙っていればいいだけの話だ。
タトゥーを入れるということにはそんなことまでついてくる。
 
単にイタいことやってんなって思われるならいい。
むしろその程度で受け流されたい。
 
しかし、自分に直接関係がなくとも目の前に自分とは異なる価値観があった時に黙っていられない、という人種はいる。
またそういう人を炙り出す状況もあるかと思うと少しそれは気が重い。というかめんどくさい。
 
 
 
いずれ黒歴史になるんだろうか、このブログごと。
でもそうやって下手なことを用心深く避けていった結果の及第点みたいな人生より、苦笑いでも目を背けても、すげーバカな事したわって後々言う人生がいいんだよな。って思ってることすら、いずれ黒歴史になるんだろうか。
 
いい歳して何やってんだという気も、この歳になってこうならもうどうしようもないだろと開き直りたい気もしている。
 
 
とにかく今1番思うのは、ピアスに憧れすぎてマグネットピアスつけてた中学生の頃とか、入学して即ピアス開けた高校1年のときの、自分以外にはなんの意味もない心強さ。それを久しぶりに感じている。
入れたかった理由、結局それに尽きるかもしれないな。
 
 
思春期から20代前半頃にできた価値観、趣味嗜好、こうなりたいという理想、それなりに取捨選択して(まじであれは黒歴史だった…みたいなものは数多あり)その中でタトゥーは手元に残った。
いいじゃん、10年は待ったよ。
おそらく私は、普通に生きていれば勝手に普通な人生が進むそういう星のもとの人間だと思う(普通とは?という話は省略しましょう)。勝手に派手な人生が巻き起こっていく方じゃない。人生経験積んできたと言いたいわけではないが、それくらいは予想がついてきたと言ってもいい年代でしょう。お堅い地味な今の仕事を辞める気もない。基本的には普通と平凡に甘んじていきたい。
いいじゃん、その中でちょっとくらい外したことしても。
タトゥーが「ちょっとくらい」かどうかに明確な基準はないので個人の判断です。
 
 
他人にどう思われるか気にしたくはないが昔の自分にどう思われるかは気にしてもいいと思うんだよね。
昔の自分に羨ましがられて年を取っていきたい。
じゃなかったら年取る意味ないじゃん。
 
 
 
 
 
 
 
まあ普通にひかれたくないので両親には言いませんが…