きのうみた夢どんな夢

繁忙期が終わり

大人になったら大人への反骨精神はなくなると思っていたが、「仕事とは辛いもの」「お給料は我慢料」「仕事してると趣味とかなくなる」というつまんないタイプの大人への反骨精神になってごりごりと根付きその精神でめちゃくちゃ働いている。
反骨精神と仕事って両立できるんだ。
客はあなたが費やしたものにお金を払っているわけではない。

繁忙期が終わった!オワコン(死語か?)という意味ではなく終わった。プロとしてもいろいろと終わっていたけど、完了という意味でも終わった。やったー
仕事ってやると終わるんですね。やると終わる仕事っていいな。繁忙期は終わったが、仕事は終わらせた。

土曜日に19時間寝て日曜日に出勤したり土曜日に出勤して日曜日に19時間寝たり土曜も日曜も出勤する生活も終わり。
家が食事風呂寝るだけの空間になりすぎて、リビングが「テレビのある廊下」みたいな扱いになるのも終わり。
どんな感じ?と先輩に聞かれて、書類広げすぎた机を前にすしざんまいポーズで「こんな感じ(笑)」って答えるのも終わり。
上司に「もう全部終わった?」と聞かれて、
「実は、まだあと1件…(苦笑)」
「そっか、頑張って(苦笑)」
って会話したけど本当はあと3件だったりするのも終わり。

全部1年後まで来ない。やったー
は?1年後?死ぬ。
 
うっかり繁忙期最終日にスケジュール更新せずに客先に直行しちゃって、あいつ来ないぞ、倒れたんじゃ?って心配されてた。誕生日よりもたくさんの人から電話とLINE来てた。わはは。すみませんでした。
 
精神的にキツい、焦る、プレッシャー、みたいなのはなんとかできる。自分のことだけなら自分で解消すればいい。
でも具体的に進まない、分からない、解決しない、というシンプルに難しくて大変なやつが久しぶりすぎてまじで厳しかった。
寝れば忘れるどころじゃなく、私は退勤のタイムカード押した瞬間にすべて忘れられるタイプなのでたいていの場合はなんとかなってるんだけど、今年はそれが全部裏目に出た。なんとかなるだろうと思ったものが全部なんともならなかった。仕事ってちゃんと向き合わないと終わらないんですね。
先輩「大丈夫?」
私「大丈夫にします。」
って受け答え週に2度も3度もするもんじゃない。
 
くそ厳しい先輩(細かくて、なあなあで済ませてくれなくて、言い方が優しくも易しくもない)からの超激重ヘビーな引継ぎがあったのが山場だった。よりによっての相手とよりによっての案件を掛け合わせたようなやつだった。
最終週の土日出勤中、この仕事してて初めて【【【辞職】】】ってドデカい横断幕が脳内に掲げられた。終わった今では【【【賞与】】】って横断幕に変わったけど、来年のこと考えるとやっぱり 【【【辞職】】】って文字も裏面にチラつく。
 
なんて言いつつ、結局仕事おもしろいよなって改めて自覚した期間でもあった(横断幕を背景にしながら)。
終わった今では仕事楽しいとかなんとでも言えるけどね、忙しさにはブチ切れながらも仕事そのものにはブチ切れずにいられたことを再確認できて良かった。なんでこんなことしてるんだろうと思っちゃったら無理。それを押し込めることを仕事を頑張ることだと思ってる人には生産性の概念!と言いたい(別に人のことは言えない)。
やりがい、以外の言葉で私の仕事への気分を言い表すなら、頑張りがいがある、極めがいがある、経験値積みがいがある、時間をかける甲斐がある、って感じだろうか。(横断幕をはためかせながら)
 
そんないい仕事に誰でも就けるわけじゃないよラッキーだねって言われるかもしれないけど、別にいい仕事してるわけじゃないよ。
業界の平均年齢は上がる一方で、うちにも新卒など滅多に来ず、典型的な中小であるこの職場はペーパーレス化も進まず、当然在宅ワークなど夢のまた夢、theオフィスなグリーンのデスクマットとのっぺりした蛍光灯の下でパソコンと書類に埋もれてエクセルがちゃがちゃやってるだけの、特に魅力的な要素は何もない。
でもやっぱりこれを極めた人間になりたいし、上司の仕事ぶりは私もこうなりたいと思うし、まず普通にいい人ばっかの職場だし、幸いなことに男女の格差なく仕事させてもらえて、トップの考えに賛同でき、職種そのものの考え方が私の性に合う。
甘やかされてわがまま放題に育ったおかげで、自分の好きなことやりたいこと我慢できること、嫌いなことやりたくないこと我慢できないこと、迷わず即答できる人間になったせいかもしれない。今のところ、自分のやりたいことも絶対無理なことも見誤らなかったなと思っている。
私にとってこの仕事が合ってる。仕事から見て私が合っているかは知らん。
 

とても仕事しているアピールみたいになってしまいましたが、一番の原因は先月に週3くらい「全然終わってないけど帰っちゃお」ってやってたせいなだけであり、最近ツイートしてなかった私は実はどたばた私生活を営んでいましたと書きたかっただけのブログでした。
 
 
Twitterしなさすぎて、ツイートのしかたを忘れた。
「僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。(中略)そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。」
という一文があって、とても申し訳ないけどTwitterやってるときに最も思い出す。

0309SUGA

ユンギさん、お誕生日おめでとうございます。

 
好きです。たぶん、これは7人に向ける中で1番軽率な好き。理性を通さずにほろっと出てしまう好き。
私のイメージだと、おしゃれな人はだいたいユンギペン。
そういう意味で、土俵に上がれないという意味で、ユンギさんは好きになっちゃいけない人みたいだ。
 
あまり表情が読めないのにたまに見せるすごく嬉しそうな顔とか、普段ぼそぼそと口をあまり開けずに喋るのに急に饒舌に語るのとか、なぜか乳歯のように見える可愛い前歯をのぞかせる笑顔とか、絶対に相手を見放さないような言葉とか、滅多に見られない声を出して笑う姿とか、1人でやるVliveでコメント読む時の「ん?」っていう何気ない顔とか、絶対に直接見たくなかったから、画面越しでしか出会えなくて本当に良かった
 
 
 
初っ端から理性を通さずにほろほろほろっと書いてしまった。
 

f:id:harunonegoto:20220321205734j:plain

最初にリアコ自覚したユンギさんの写真
 
 
 
ユンギさんにとってのラップは、おそらく私にとってのロックと同じで、つまりはユンギさんにとっての音楽は私にとっての音楽と同じだと思う。個人的な共通ではなく、音楽が好きで音楽に助けられてきた多くの人間と同じだと感じる。この人はこちら側なのだなと思ってしまう。
 
私の中で最も大きいのは、BTSのSUGAよりも、個人としてのミン・ユンギさんよりも、圧倒的にアーティストとしてのAgustD。
私にとってアイドルファンの部分と音楽好きの部分は、別枠な部分が大きい。好きなアイドルの曲なら無条件に全部好き、とはなれない。
私はAgustDの曲をBTS抜きでも完全に好きになっていたと思う。先にBTSを知ってしまったので本当には分からないけれども、それでも私は、彼の曲を聴くときアイドルとして愛でる部分を感じていない。
吐き捨てるような、ため息をつくような、隣で淡々と語りかけるようなラップも、絞り出すような歌も、攻撃的な叫びも、暗闇で響き渡るようなイントロも、世界の孤独を背負ったような間奏も、あまりにダイレクトに受け取ってしまう。夜の街を一人で歩くときに聴くpeopleとか、眠りに落ちる直前に耳に入る Set Me Freeとか、もうこのまま脳みそと音楽が一体化してほしいと思うような気分はただアイドルとして好きなだけじゃ絶対に味わえない。あーとにかくこの音楽が好き、と為すすべもなくただ思う。
(念のために補足すると、楽曲を好きになることが「ただアイドルとして好き」でいることよりも上位にあるという意味ではない。)
 
この音楽を聴かないと埋められないという気分があって、私は新しく好きな音楽を見つけるたびに、今まで埋められていなかった部分を埋めることができたような気がしていて、BTSもそうだけど、それとは別の部分でAgustDに埋めてもらっているところがかなり大きく存在している。
 
表現することをやめないでいてくれてありがとう。痛みや陰を受け入れた世界を見せてくれてありがとう。
いつでもふいっと表舞台から身を引いて制作側に行ってしまいそうに思っていたけど、知るほどにユンギさんにとってのグループとメンバーの大切さがわかってきたから今はそんなに不安に思っていない。着陸まで見届けさせてほしい、というのが私の夢です。
 

f:id:harunonegoto:20220321205837j:plain

 

 

0218j-hope

冬の底かと思うほど、今日は寒いです。ソウルはどうですか。

ぶ厚いコートにニットまで重ねて動きが鈍くなっている私は、このキンキンに冷えた空気とセットでホビさんの笑顔を思い出しています。もこもこな冬おしゃれのホビさんが寒いのにアイスアメリカーノを持っていたり、帽子に手を添えてにこにこしている写真。去年も今年も(その前もあっただろうけど、同じ冬は去年からで)そんな素敵な姿を見せられちゃったから、寒い景色ではホビさんの笑顔がセットで思い浮かぶようになってしまった。

画像

お誕生日おめでとうございます。
私たちの希望が生まれた日。
「私たちの希望」、なんと大きすぎる概念。

 

チョン・ホソク、ではなく私が見ているのはアイドルJ-hopeさんだから、芸名と本名の呼び分けはきちんとしていたい。なので、私はここでホソクさんとは呼ばないけどJ-hopeさんだとちょっとかたい気がするから、愛称としてホビさんと呼んでいます。

 

 

スターであっても時に普通であろうとするジンくんやナムさんと対照的に、ホビさんはどんなときにもスターであろうとしているように思います。J-hopeでいることが、そのまま希望でいられることだというように。

I’m your hope, you're my hope, I’m J-hope!

アイドルのキャッチフレーズとして、あまりに完璧すぎる。その笑顔を思い浮かべながら口にすれば絶対私も笑顔になってしまう。まるで魔法の言葉。そこに彼の人柄と魅力と、その名前を背負った覚悟が詰まっている。しかも、覚えやすくて伝わりやすくて愛と感謝がこもっていて、どんなときにも相応しい。完璧。

自他ともに認める私たちの希望。アイドルでいることによって、私たちの希望でいてくれるホビさん。私たちの希望でいてくれることによって、アイドルでいてくれるホビさん。

その重圧は計り知れないけど、きっとこれは、そのままあなた自身の希望でもあるのだと思います。

だから、たまには気を抜いて休んでねとか、ファンに弱音を吐いていいんだよとか、あえて言いたくない。もちろんホビさんがそうしたければいつでも歓迎なのだけど、そうやって言うことがホビさんの助けになるような気はしない。

 

じゃあ私はホビさんに何を言えるのだろう。

ウェンブリースタジアムの、Just Danceのステージを思い出す。

会場に響き渡る「J-HOPE」コール。目をぱちくりさせてイヤモニを外すホビさん。気づいた瞬間本当に嬉しそうな顔をして、それを見てますます大きくなる歓声。もっともっと、というように煽るホビさん。普段、写真に写るときは7人の端にいることが多く、個性よりも全体のパフォーマンスを大事にするホビさんが、満杯の歓声を堂々と独り占めして輝いていた。自信と誇りに溢れていた。彼がアイドルでいてくれることがなんて素晴らしいことなんだろうと思った。

ホソクさんは自らアイドルJ-hopeになってくれたのだけど、同時にファンがホソクさんをアイドルJ-hopeにしている。

 

ホビさんに何を言ってあげられるのだろう。

たまには休んで弱音を吐いてアイドルじゃなくてもいいんだよ、じゃない。思いっきり「J-HOPE」と歓声をかけたい。そうやってアイドルとファンの関係を目いっぱい享受していたい。していてほしい。アイドルでいて、希望でいて、と望み続けたい。そして今日も私の希望になってくれてありがとうと言い続けたい。

もしホビさんにとってそれが重荷になるときは、ホビさんはプロだから自分で調節すると思う。もしプロであることすら疲れたら?たぶんそんなことはホビさん自身も想像できてないと思う。

 

求められることで生き生きする人。求められるものが大きいほど、大きく羽ばたいてみせる人。

 

ホビさんを見ているとたまに、私は憧れの先輩を見ている気分になる。
これは記憶の中の特定の誰かを指しているわけではないです。
私たちと同じスタート地点から努力しているはずなのにめちゃくちゃ先の方にいて、なのにすごくフレンドリーに歩み寄って楽しませてくれるから親しみを感じてしまう人。だからものすごく尊敬してやまない人。その気持ちを、好きです!憧れです!尊敬してます!って躊躇なく言わせてくれる人。それがなんだか憧れの先輩みたいな存在。

私は昔から先輩と仲良くしてるタイプだったけど、あれは友人や後輩と違って「憧れです!」って言いやすい存在だったからなのか、と今になって思う。勝手に1番身近な推しにしていたんだろうな、先輩という存在を。ただのめんどくさい後輩だった可能性もあるような。(まあ後輩の立場って楽だし、ただ自分の後輩の面倒見が悪かっただけとも言えるな…これも今になって思うと。)

ホビさんの後輩だったら、いつも明るい先輩にたくさん笑わせてもらって楽しませてもらって、それに喜んで私はへらへらしているだけで、仕事モードのホビさんと対等に話すことなんて一生出来ないままだろう。好きにもなる前に失恋してる。その距離感すら、楽しんでる。なんて思う次の瞬間にはまたホビさんはにこにこ顔で、好きにすらなれないのにやっぱり失恋もさせてくれない。

ってこれは憧れの先輩の話だっけ、アイドルの話だっけ。もうどっちでもいっか。

 

 

 

 

読んだ本の話「楽しい終末」

読んだ本の感想をインスタで載せているのですがどうにも長くなりすぎたのでこちらに。ただの備忘録です。

f:id:harunonegoto:20220130210841j:plain



エッセイというのか、終末世界についての省察といえばいいのか。

人間社会が終末を迎えるなら、そして終末世界とはについての考察。

科学技術と環境破壊という目下の課題から、先に終末を迎えた種族としての恐竜の話、人はどこまで終末の世界を描けるのかというSFの話、そしてそもそもどうして人がこのように発展してしまったのかというサル学としてのヒトの話など…

 

思想云々とか以前にそういう難しく正解のない題材が、池澤夏樹さんの文章と目線だと全部魅力的な話に見えてしまって、夢中になってしまった。

 

例えば1章2章「核と暮らす日々」の原子力発電についての表現。

言ってみれば、核エネルギーは逆宝くじである。普通の宝くじは少しのお金を個人の意思で投資して万に一つの幸運を待つ。この原理によって人は毎月のまったくの浪費を許す。それに対して原子力発電は毎月少しずつの便宜を一方的に提供された上で、確率上は万に一つの巨大な不幸の実現を知らず知らずに待つ。(p77)

比喩表現というのは、まるでナントカのようなというただの言い換えではないんだよな…

 

個人的に興味深かったのは3章「ゴースト・ダンス」。

「近世と近代の世界全体でもっとも終末論的な過程を長く生きた」存在としてアメリカ・インディアンを取り上げた章。(当時はネイティブアメリカンという言い方はなかったらしくやむを得ず「インディアン」と呼んでいる)

開拓時代のアメリカで、もう戦うリーダーの出番がないほど追い詰められていたインディアンに、違うタイプのリーダーが登場した。つまり宗教家。そこで広まったゴースト・ダンスの話。

一度の催しに千人以上が参加することもあった。それだけの人々が昼夜の別なく五日間にわたっておどりつづけるというのは壮観でもあり、見かたによっては悲惨でもあっただろう。(p113)

 

たしかにゴースト・ダンスをきっかけにインディアンは自分たちにふさわしいミレニアムの夢を描いた。だがそこで語られる楽園は、(中略)言ってみれば現状をそのまま裏返しただけの、ある意味では貧しい内容のものである。(中略)彼らが本来持っていた奔放な想像力や文学的な表現力、広大な世界を描く神話的な精神の力はもうこの時点では残っていなかったのだろう。(p116)

今あるアメリカという国の、始まりの時代。それが終末であった人たちの世界はちょっとショックだ。その人たちの文化も勝手にアメリカの一部と認識していただけになおさら。

 

4章「恐龍たちの黄昏」も面白かった。

わくわくする恐竜の話、大人になってから読んでなかったかも。

恐竜の存在を認めるためには、まずもってその絶滅が受け入れられなければならなかった。(中略)言ってみれば恐竜は、今はいないという事実によって、われわれの世界に後ろ向きに入ってきたのだ。(p130)

まずこれまで我々が、恐竜のことを絶滅したという理由で劣った生物と見なしていたことを指摘してる。恐竜を、充分に発展して活躍した上で地球から退場していった種族、と書き表しているのが印象的。

 

ホモ・サピエンスというのは自然が試しに作ってみた無意味な玩具、最初から超高速で進化してたちまち行き詰って消えてしまう呪われた種なのだろうか。知力というのは結局は絶滅の因子でしかないのだろうか。(p152)

 

 

6章「人のいない世界」

このあたりからずっとうんうん唸りながら読んでいた。

なぜわれわれが糾弾されなくてはならないのか。今までの生活様式を改めなくてはならないのか。普通の水を使い、せいぜいうまい米を食べ、恥ずかしくない程度の車に乗って、下手なゴルフに付き合いで行き、運がよければ小さな家を建てる。汚れものは市販されている、つまりまっとうな商品として世に認められている洗剤で洗う。フロンのスプレーがいけないというのなら使うのをやめてもいい。しかし、それでもわれわれの行為ゆえに世界が終末を迎えるほかないのだと言われれば、それに対して返す言葉はない。(p198-199)

※書かれたのは90年から93年。

それくらいでは駄目なのだ。もっとも成功した捕鯨禁止運動でさえあれだけの紆余曲折を含んでいた。もともとの比率が九対一だった上に、巧みな世論操作を行ったから、クジラは救われた。熱帯雨林のような利害の錯綜する、いや正確に言えば、みんなが受益者で、被害者の像がなかなか見えないという事象の場合、伐採凍結は無理な話である。(p207)

 

人間の欲望にとって、地球はあまりに小さすぎた。無限に広かったのは世界でなくわれわれの欲望の方だった。(p214)

 

実際の話、この三百年間、世界の進歩を支えてきたのは、西欧的な方法を適用する範囲の拡大である。(中略)西欧文明の場は決して閉鎖系では、なかった。外からの物質の流入があってはじめて支えられた進歩であり、発展だった。それが地球の大きさという絶対の限界にぶつかった時、今見るような終末論が出てきたのである。(p306)

 

 

しかし終末論とか環境論とか反原発論とかそういう個別の話より、もっと根本的なところで私はひっくり返されている。

 

恐竜たちの黄昏の章で、進化論について書かれたこの一節。

進化論は単に生物学の思想ではなく、人間の自己確認そのものに関わる大問題だったのである。われわれが原理的には完全な生き物であって、その時々の事情で少し蹉跌を生じはしても最後には神の恩寵によって確実に救われうる存在であるという見かたと、人間など積もり重なる偶然の産物に過ぎなくてたまたま今見る形でこの世にあるだけだという主張との間には、橋の掛けようもないほどの隔たりがある。(p127)

昔は今とは違う説が信じられてきた、というあまりにも当たり前の事実を私は何も分かっていなかった。“信じられてきた”の部分を勝手に解釈していた。無知ゆえに、非科学の時代で、他になかったから、それを信じてしまったのだというように。それを信じる人々についての想像力がなさすぎた。

 

十七世紀の末ごろ西欧に台頭し、やがて世界全体を支配するに至ったある思想的な傾向がある。(中略)今も子供たちはこの思想を教えこまれ、その心地よい刺戟を利用してそれぞれのものの考えかたを形成し、世界はそういう風に運営できるものだと考えるようになる。二十世紀末の日本に生きるわれわれにとってもあまりにも普遍的であるために疑いを挟む余地がないかに見える思想。すなわち進歩の思想。(p303)

 

9章「沙漠的思考」でとどめを食らった。

実際、サハラ砂漠に立ってみると、方位の感覚が森林や草原とはあまりに違うことに驚く。地平線まで砂や礫しか見えない場所では方位というのは実に抽象的で無意味なもので、それよりは上下感覚の方がよほど強い。平らな地面の一点に自分が立っていて、その上に天がある。これが世界というものの基本構造であるとすれば、上から自分を見る超越者の視線は他のどんな場所よりも強く感じられる。何かが上から存在を保証してくれなければ、自分など砂の中にすぐにも消えてしまいそうだ。そういう不安感。自分がこの場にいることは決して自明ではない。上なる者によってそうあらしめられていると考える方が自分というものを受け入れやすいのである。(p308)

 

私は何もわかってなかった。

人が信じていることも自分が信じていることも。

宗教というよりも自然観、つまり世界の捉え方そのものを、自分で選んだかのように思っていたと気付かされた。一神教よりも八百万の神の方が馴染みがあるし好きだなぁ、みたいな。でも一神教を信じている人たちの方が世界では多いらしいねみたいな。

自分の知らない世界はどれだけ広いんだろう。

いつか必ず砂漠に行ってみようと思った。人生でやりたいことリスト久々に更新しよ。

 

今まで知らなかったから、気付いていなかったから、見えてなかった部分を強制的に明るく照らし出されている。使っていなかった脳みその領域を強制的にめりめり押し広げられてる。

 

 

 

その他、ここに出てきて読もうと思ったものリスト

・『黙示録三一七四年』ウォルター・ミラー

・『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』ジェイムズ・グレアム・バラード

(いよいよSFの苦手を克服しなければ…)

・『森林の思考・砂漠の思考』鈴木秀夫

 

 

1230V

ヘッセの小説デミアンにこんな場面があります。

できあがった絵の前にすわると、不思議な印象を受けた。それは神々の像、あるいは神聖な面の一種のように思われた。なかば男性、なかば女性で、年というものがなく、夢想的であると同時に意志の強さを持ち、秘めた生気を持つと同時にこわばっていた。

たとえば、あくまでたとえばですが、私はこれを読むときに思い浮かべたのがテヒョンさんでした。ただ美しい人として、それも現実感のないくらいに美しくて、でもとても人間味のある人として。

 

テヒョンさんの魅力を言い表せる言葉があるのだろうかと思います。

男性的にも女性的にも見え、東洋的にも西洋的にも見える。色気と無垢さの両方がある。力強く見える時もあるけど、もうここにいないんじゃないかと思うほど儚い時もある。最近は儚く見えるような不安さは少なくなった気がするけど。すべてを見透かしたような笑みもするし、冷たい無表情も、もちろん天真爛漫な笑顔も。

常人には想像できないようなタイミングたとえば暗闇で仮面を剝がすときに口角を上げる、テヒョンさんの魅せ方には毎度鳥肌が立ちます。

 

魅せる才能。天性のアイドルが本当に存在するんだと思います。歌手というだけでは違う。その魅せ方は歌うときだけには留まらないから。スターというのもちょっと違う。結果的に今スターになったのであって、あなたは無名のころから、いや赤ちゃんの頃から天性のアイドルだったと思う。決して低俗なものではない意味でアイドルと言いたい。歌で、踊りで、笑顔で、言葉で、ただいるだけで人を魅了する崇高な存在であるアイドル。

人を魅了する才能を持った人。ただにこにこしているだけで人を惹きつけ、「魅せる」という意思を持てばさらに抜群に魅せられる。

どちらかが付随しているわけじゃない。お仕事モードがすごいからオフの笑顔のギャップが可愛いとか、元は可愛いのに本気出すとかっこよくなるからすごいとか、そういうどちらかがメインの魅力じゃない。両方がどちらもこれだけ秀でているというのは本当に選ばれた人だと、思ってしまいます。

 

 

 

愛を与える人。愛に満ち溢れた人。与えられた愛を、何倍にもして惜しみなく(そう、本当に惜しみなく)返してくれる人。どうやったってスターになれた人だと思うけど、それが愛を与え合う6人の仲間と一緒で良かったなと思う。デビュー前、シークレットメンバーとして隠されていたことを特別扱いと思うどころか「切り離された」と感じるような人だから。 

何もしなくても絵になるような人なのに、音楽や映画、絵画など芸術を愛し、常に自分の中に素敵なものを取り入れようとしているのを、いつも尊敬しています。そしてそれをたくさん共有しようとしてくれていることも。あなたの愛の向く先は人に対してだけではないのだなと思います。

翻訳を通してしか分からないけど、テヒョンさんがVliveでARMYに向けて話すときの優しい話し方がすごく好きです。時々、お母さんが小さな子供に話すような優しさに聞こえます。もちろん上から話しかけているという意味ではなく。

ARMYのことを、大切な存在だという言い方に、恋人とかじゃなくて一貫して「友達」と言っているのが好きです。

 

f:id:harunonegoto:20211231065021p:plain

どうしてこんなに幸せを願ってしまうんだろうか。テヒョンさんがつらい思いをしていると想像すると簡単に自分の心が痛む。これは単にすごく好きだから、とかそういう程度の問題ではないような気がする。自分事ではない他人事、の壁がこの人にだけはすごく薄い。小さな子供が悲しい顔をしていると心が痛んでしまうのに近い。

 

 

作家ニール・ゲイマンが大晦日に語ったというメッセージがなぜかテヒョンさんの誕生日にぴったりだと思ったので引用させてください。

これは誕生日という新しい年を迎えたテヒョンさんへ伝えたいメッセージであると同時に、明日には(遅れずに書けば明後日にはだったが)新年を迎える私たちへのメッセージでもあります。

みなさんの新年が、魔法と夢と、善良なる狂気に満たされますように。すばらしい本を読み、すばらしいと思う人にキスをして、それから芸術も忘れないでほしい。執筆したり、描いたり、作ったり、歌ったり、または、あなただけにできる生き方をしてください。そして来年のいつか、あなたが自分自身に驚かれることを期待します。

…あなたにとってすばらしい年になりますように。過激で突飛な夢を見る年であり、これまではあり得なかった何かを実現させる年であり、あなたが愛され慕われる年であり、その見返りとして、人々に誰かを愛し慕うように促す年であり、そしてないより大切なことは(今の世界には、優しさと知恵が欠如していると感じられるので)、ここぞというときには賢く、そして常に優しくいられる年でありますように。

Make: Japan | ニール・ゲイマンの大晦日のメッセージ

テヒョンさんの新しい1年が、魔法と夢と、善良なる狂気に満たされますように!

NUMBER GIRL 1226 zepp tokyo

 


福岡県博多区からやってきたNumber Girlというバンドのライブに行った話。

 

Number Girlというバンドを私は実は結構かなり好きなのですが、Number Girlが好きな音楽はそんなに好きではなくNumber Girlを好きな人たちが好きな音楽もそこまで好きではなく、なのでこのバンドは自分の好き音楽エリアの中でちょっと単独というか別枠というか分類できないような微妙な位置にいる。

そもそも聴くようになったのは大学のサークルがきっかけで、サークルにいなければ聴いてなかったかもしれないと思うとどうしてもこの音楽からサークルの記憶を抜きにすることができず、思い出補正があるんじゃないのとも思うけど、ただ思い出としては片付けることもできないくらいには好きなバンドだった。

だからこのバンドを本当に好きな(本当に好きって何?)人たちにはちょっと後ろめたさがありながらも、結局大学時代がすっかり過ぎたものになった今日までずっと聴き続けているという、私にとっNumber Girlは好きなわりに立ち位置の定まらないような距離感のつかめないようなバンドだった。

2019年に再結成したときもすごく嬉しかったけど人のことで喜んでいるような感じで、めちゃくちゃ嬉しかったのに他人事の顔をしていた。

Number Girlがいる世界線に自分の人生があることは全然ピンとこなかったし、「チケットをご用意することができませんでした」となっても、その残念さも自分の身に迫るものとは違う他人事の悲しさで、もっと好きな人が行くんだろうという諦めがあるだけだった。

 

この日ついに初めてライブに行って私は、このバンドが本当にようやく実感を伴ったような気がした。ようやく直接、思い出を介さず、自分でこのバンドの音楽を聴いた気がした。別にこれで胸を張ってファンを名乗れるとかそういうことではないけど。

たぶん今後も他人事みたいな顔をしてしまうだろう。でもナンバガ聴いてる方の人生でやっぱよかったんだよなと思った。

 

 

 

 

コロナになってから初めて行ったライブでもありました。

2020年3,4月頃に取ってたライブ、全部払い戻しになって終わってしまった。

他はわからないけど、今回のこのライブは完全着席の歓声禁止スタイルで、zepp tokyoに行儀良く椅子が並べられているのを見てこれは芸術鑑賞会か?ここは市民会館か?と思ってしまったけど正直体力的にはありがたかった。でも19歳くらいでメロコアバンドのライブ来てこれだったら一生引き摺ると思う。いよいよメロコア廃れてしまうのでは。若い子ってもうメロコア聴いてないの?

f:id:harunonegoto:20211227220306j:plain

 

自分の学生時代にやってたこと、サークルの狭くて閉め切った練習室で漫画読んでコンビニ弁当食べて練習してライブして飲みに行くって、感染対策したらできないことばかりだったと思う。

もしかしたらできなかったかもしれないことと本当なら今もできたかもしれないことを考えながらライブを見てしまっていた。

もう戻らない(そんなに戻りたくはないが)学生時代が、コロナを経て二重に失われてしまっている。

ああでも言い換えると自分の若者時代はコロナ前に間に合ったとも言えるのかもしれない。

 

1204JIN

推しって何、と聞かれたらその答えは人の数だけあっていいけど、たとえば私は「大勢いる中で真っ先にどこにいるかを探して目で捉えてしまう人」と答えたい。

その捉えた1人が輝いて他に誰も見えないとか、誰より心を乱されるとか、どう客観的に見てもこの子が1番としか思えないけど違うんですか??とか、その見え方も人の数だけそして推しの数だけあっていいけど、今の私の推しは1番好きな7人の中でふんわりと真ん中にいるイメージで、でもこれはジンくんが6人の中心にいる構図に見えているわけではなく、私の頭の中の1番好きエリアの中で特にフォーカスしてピントが合ってウェイトを占めているというそんな感じ。

likeじゃなくてloveの好きというように好きにはいろいろあって、もしかしたら全ての好きに同じものは1つもないのかもしれないと思うほどだけど、特別1番好きな7人の中で私はさらに別枠でジンくんが好き。それは7人の中で1番とかではないし、ナンバーワンではなくてオンリーワンなのかというと7人全員オンリーワンだし、その中の別枠なこれは、なんだろう。

1番幸せでいてほしいと思ってる。

この「1番」がかかるのは「幸せ」の部分ではなく「思ってる」の部分。「誰より1番思ってる」ではなく「私の中での1番」。

幸せでいてほしいという思い、を私が1番向けてしまう人だ。

「自分が幸せにしたい」というのもあるかもしれないけど私のできる範囲では到底及ばない規模で幸せになってほしいからそれもちょっと違うんだよな。今ちゃんと幸せかな何か辛い思いしてないかな、と1番気にしてしまう人。

もっと簡単で気楽でカジュアルな話で言えば、メンバーの名前を叫ぶ歓声の中で私は「JIN」と叫ぶ歓声の一部になりたい。このグループにメンバーカラーはないけどあったとしたらジンくんカラーのサイリウムの光の一粒になりたいそれだけ。 f:id:harunonegoto:20211204195702j:plain

 

推しの顔の良さを見ては毎日泡吹いて倒れているので顔が良くて好きっていうのはもちろんある。むしろ顔が好きの何が悪いのと思う。顔を見るからその人を知れて、その人を知るからさらに顔に浮かぶ表情がよくわかる。それを上っ面とひとくくりにするのはもどかしい。

知らない人の「顔」は履歴書に貼られた証明写真みたいな顔のことを指すけど、よく知った人の「顔」ってほとんど表情のことを含んでいる。

 

ジンくんの顔が好き。

む、って感じになるときの口元。

ぱちっとしたときの丸い目。

前髪をあげて眉が見えると凛々しくなるところ。

何かを言いかけてやめてしまったような含みがある表情に見えてしまう、伏し目にしたときの顔。

笑う時は本当に楽しそうにキュッとなる目。

冷酷に見える無表情。

ふと顔を上げたときの無防備な目。

 

f:id:harunonegoto:20211204195957j:plain

たぶん第一印象でイケメン!ハンサム!ってなる顔立ちじゃない。なぜか最初は普通に見える。なのに知るほどに美しくて、だからむしろ重要な魅力に自分が気づいてしまったような気になっちゃう。

 f:id:harunonegoto:20211204195800j:plain

 f:id:harunonegoto:20211204212627j:plain

ジンくんの作るJINというアイドル像が好き。

最初の頃の映像を見ると、キメようとすればするほどお茶目な顔になっていて、格好つけるってことをそれまでの人生で全然してこなかったんだろうなと思う。だからフィクションの世界みたいなそのハンサムキャラもソンキスもバラの花もにっこり笑顔も、全部アイドルJINのために作られたんだろうと想像できるから、私はスクリーンに登場する映画のキャラクターに熱狂するようにジンくんの作ったアイドルJINに熱狂するのを楽しんでいる。

気に障ると書いてキザと読むように、嫌な感じにさせる気取ったカッコつけ方もあるけど、ジンくんのキャラクターがそうではないのは、その発想が自分を良く見せようというものではなく、自信があるせいで出てくるものでもなく、根底にあるのがサービス精神というような相手本位の見せ方だからだと思う。キラキラしているのは、裏を返せばキラキラしていないところを見せないということで、そこに感じるプロ意識、そこからくる信頼感と尊敬。

 f:id:harunonegoto:20211204195837j:plain

 f:id:harunonegoto:20211204200719j:plain

覚悟と努力と美学に基づいてるから、ぶりっこキャラや自分大好きキャラのアイドルが私はもともと大好きです。

他界隈の話で申し訳ないのですが、ずいぶん昔に道重さゆみ嬢がバラエティー番組に出演して
司会「どうですか?今日の自分を鏡で見て。」
道重「はい、今日も安定して可愛いなと思います♡」
って言ったのを見てなんて完璧な100億万点のアイドルなのかと感動しちゃったんだよね。

だからジンくんを最初の最初に気になったきっかけはそのハンサムキャラで、加えてソンキスやバラの花を投げる姿で、とはいえそれはあくまできっかけに過ぎなくて、決め手はいうとやっぱりそれは日々見せてもらえる姿なんだと思う。

たとえば「服は起きて最初に目に入ったものを着る」のような外見へのこだわりのなさ。ボンボヤ1で言った「(この旅をのことを)すぐに忘れると思います。」と現実に軸を置いているようなところ。結婚して、のコメントに対する「あり得ない話はやめてください」「すごく強いコメントです。」たくさん稼いでも無料のものは好きなところ。in the soopで「目に入ったから」と起きてすぐサンドバッグを叩いたり爆竹を鳴らしたりと直感的な行動も疎かにしないところ。枕を持参するところ。パジャマ派のところ。soop2でクーラーを発明してくれた人に名前は忘れつつ感謝したり、キッチンとダイニングの真ん中で大の字に溶けたりする姿。弟たちに言う「ヒョンがやるよ」の本当にさりげない言い方。「お客さんは泣くところ見にいらしているわけではないから」とコンサートで涙を堪える姿。「自分の努力は自分だけが知っていればいい」という優しさと強さの両方を感じる言葉。そして「一瞬の幸せと不幸が人生の全体を左右しないように」という言葉、ずっと覚えておきたいです。

 

でもどれも決め手じゃなかった気もする。好きになった人をより一層好きになった要素であって、結局どんな理由よりどんな要素よりも好きの感情が先にあって、頭で確かめるのは感情よりずっと後だ。(逆に自分の感情を頭で確かめている好きは、離れ時かもしれないというのは自分の経験論。推す理由を考えていたら離れ時。付き合っている理由を考えるようになった恋人は別れ時。)

 f:id:harunonegoto:20211204195938j:plain

 

現在進行形の感情だから全然まとまらないね。

お誕生日おめでとうございます。

大好き。