きのうみた夢どんな夢

10月の諸々

10月は自分の誕生日の月。

誕生日は最寄り駅前の不二家でケーキを買った。ケーキ屋さんのようにどこにでもある「わざわざ」行く場所って好きだな。

友人とおめでとうメール送り合うのは、いつのまになくなったんだろう。自分が送らないから来なくなったのか、全体的になくなったのかは知らない。自分からも人からも祝われなければならないということはないし何かしなければいけない日ではない。好きなことしていきましょう。強いていうなら機嫌良くいよう。

 

32歳の目標は?」と旦那に聞かれて、その質問が新年や新学期にテンション上がって目標立てたり手帳を新調しちゃったりする浮かれたやつじゃなくて、もっと堅実な感じの質問だったから、へぇ~~~となった。新卒1年目の通勤電車では「社会への反骨精神を忘れないために」とセックスピストルズを聴いてるとか言ってた奴がね~。でも、彼はその年相応に生きてるだけだし、何かするべきはどう考えても私なんだよな。

私は新年にテンション上がって目標立てたり手帳を新調したりする浮かれたやつを今も欠かさずに行っているので、あと2ヶ月ちょっとで新年という自分の誕生日にはいつもあんまり気分新たにならない。というようなことを答えたので堅実なことはなにも答えてなかった

 

 

10月という月には愛着がある。

自分が一番好きな夏という季節が終わり、年末のそわそわした気配が見えてくる頃。

一番好きな季節は夏だけど、クリスマスのふわっふわした高揚感や同時に来る師走のバタバタ、暮れの終末感、年越しのあっけなさ、少しずつ日常に戻っていく年明けの時期が大好きなので、年越しが夏じゃなくて良かった、北半球に生まれて良かった、と地球規模に感謝してる。

 

最近の自分の誕生日のルーティーンに、クレジットカードのポイントをアマゾンギフト券に交換する、というのがある。1年で期限が切れるので年1でやるとちょうどいいという理由。結構貯まってて怖い。

アマゾンはもっぱら古本を買うのにしか使ってないので、クレカのポイントは間接的に自分へ本のプレゼントになる。

 

今年もらったプレゼントでいいなと思ったのは、旦那母から手渡しで1万円もらったこと。私の好きな誰かもやってたな、プレゼントに現金。

「この1万円は、大事に貯めたり日常生活に使ったりするのは禁止ね。なんでもいいから何かに使って、それを報告すること。」って言われてそれいいですね!!って思った。

それで、たまたまアウトレット行きたいねって旦那と話してたところだったからその日に行ったら、たまたまドクターマーチンの気に入るデザインのブーツを見つけて、たまたまワンサイズしかないために安くなっていて、たまたまそれがぴったりで、なんとたまたま1万円(税抜き)だったので買った。義母にも良い報告ができてうれしい。

マーチン11年ぶり2足目だけど、1足目は割と思い切った買い物だったけど、今考えるとマーチンほどコスパのいい靴もない。早くくたくたになるまで履き込みたいな。

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誕生日にかこつけて自分に自分で何か買いたいけど、思いつかない。買えるものは欲しいときに、欲しいものは買えるときに買っちゃうからな。

1013JIMIN

私が4歳から習っていたクラシックバレエをやめたのは高校を卒業した後で、そんなに続けているとずいぶん本格的にやっていたように聞こえるかもしれないけど、単にやめたいと思ったことが一度もないだけだった。

子供ながらになんて奥深い世界だろうと思っていたし、そこで自分の美意識の一部が作られたことも、プロの世界を垣間見れたことも、礼儀や尊敬の気持ちを教わったことも、全て感謝すべき幸運な場所だった。

 

それをやめてしまった理由、やめたかったというよりはそろそろ続けるのが難しいかなぁという感じだった。
実家暮らしだから通うことはできたけど、大学生になってサークルやバイトや飲み会(勉強も)ってなって、受験みたいに期間限定の忙しさじゃないからこれ以上通い続ける自信がなかった。
それに上手い子はそろそろプロにもなれてしまう歳で、留学する子なんかもいて、もう自分の属する世界じゃない気がした。
やりたかったらそのうち大人の趣味の教室とか行けばいいよね、それも気楽でいいかもねと。
だから、やめてからぽっかり穴があいたように…なんてことは特になく、あってもなくても生活はすごく普通に回った。

 

はずだった。
それがおもしろいくらいに何度も何度も夢に見るようになってしまった。
最初は「なんだ、やめてなかったんじゃん~」って夢。
そのうち「しばらく休んでたから追いつかなきゃ!」みたいな夢。
さらにそのうち「何回も夢に見たけど今度こそ本当に再開したんだ!」って夢。夢オチかよ。

 

夢の中ではずっと練習しかしてない。華やかな舞台よりも毎週の練習が楽しかったんだよなって思い返す。
夢の中で私はずっと高校生くらいで、留学しているはずの子も最近主役に抜擢されたらしい子もみんな中高生のままで、ああそうかその後のことなんて私はもう知らないもんな、と思い知る。
やめたというより、終わらせたとか切り離してしまったというような気がした。
未練ってこういうことかって、少ない人生経験ながら思う。

 

 

本当にひきずっているのはやめたことそのものじゃないと、自分でわかっていた。
本当の未練は、サークルやバイトや飲み会(だから勉強も)って自分が新たに獲得した生活を、バレエよりも後に見つけた趣味を、そっちを選んでしまったことだ。

 

 

 

 

 

 

 

全然話は変わるんですけど防弾少年団のパク・ジミンさんお誕生日おめでとうございます!!!!!!!!
あなたの踊りが1番好きです。
あなたの踊りの基礎にある現代舞踊は、私が学んだバレエと共通しているものを感じます。
私が昔好きだったものも今好きなものも、あなたの踊りはどちらも切り捨てることなく、両方肯定してくれます。両方叶えてくれます。あの時の自分には想像できなかった世界まで表現して見せてくれます。
弱さを隠すために身につけたような力強さと、そこから弱さがにじみ出てしまったような儚さと、それらを全部巻き込んだようなあなたの踊る世界が好きです。
内からの衝動に突き動かされるようなあなたの踊りに、私の感情はいくらでも揺さぶられます。自分の内側の衝動まで突き動かされるような気がします。

私はクラシックだったから、当時はモダンバレエを見ても何が良いのかさっぱりわからなかったけど、自由で素直な踊りだったんだと思った。自分が踊りの何を好きだったのか思い出した。

ジミンさん、
踊るって本当に楽しいよね。
踊っているときが一番自由だったり、永遠に踊っていられそうだと思うことがあるよね。

今はもう自分に何も残ってないけど、でもやっぱり好きだったことは確かに残っている。捨ててしまったと思っていたけど、いや、捨ててしまったことも含めて全部自分の中にあったんだと思う。

自分語りばかりしてごめんなさい。
でも、自分の記憶や感情を思い起こさせ重ね合わせられるような芸術に出会うときがめちゃくちゃ幸せだからやめられない。

踊りって、感情であり言語であり内面であり世界でもある。ジミンさんが少しでも長く幸せに踊り続けられることを願っています。でも踊り続けられなくなっても、椅子に座って歌うだけでも、できればあなたの纏う世界を見せてほしいなと思ってしまいます。

 

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とかいろいろ言ってみてるけど、酒豪のあなたが大好きなんだよね。

 

サンリオ展に行った話

サンリオ展、サンリオがいかにしてカワイイワールドを確立してきたか見応えがあってとても良かった。

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展示の中でなるほど~!と思ったこといくつか

 

キャラクターはときめきをつくるもの

・売れるかではなく、カワイイかカワイくないかが基準

・誰でも描ける、作家性のないものを目指した

・時代に合わせてスタイルを変えてみせることで(リボンをハイビスカスにする等)女の子たちはキャラクターに自己を投影できた

・センスが良い、かっこいいには文化や個人差があるが、カワイイの感性(例えば子犬や子供を見て)は国境を越えて共通する

 

・認知されて初めてデザインからキャラクターになる

特にこれが、確かに!と思った。

例えば、ハローキティハローキティだと認知されて初めて、単なる猫のデザインから「ハローキティ」になるのだと。

これはアイドルに当てはまる部分もありそう

 

 

キキララの展示で

ハローキティマイメロディと違い内省的なかわいさをもったキラクター」

とあって、わかるようなわからないようなでもなんかわかる、、、と思った。

私が昔からなんとなくキキララが好きな理由もそれな気がした(んな年代の人でも、サンリオに関しては本当に“昔から”の思い出があるのがすごい)。

 

デビュー当初はそこまでの人気ではなかったが、表紙に初登場したキキララに「あの表紙の子たちは誰?!」と問い合わせが殺到したらしい。

夢みたいなストーリーが、ちゃんと存在している。ただのイラストのデザインに、こうしてキャラクターが生まれドラマが生まれ、ストーリーが出来ていくの胸が熱い。

 

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(撮影:夫)

付き合ってくれた旦那ありがとう。

旦那も楽しんでくれてたんだけど、後日これのことを「カワイイもの展」と言っていてサンリオがカワイイの概念そのものかよと思いました

 

 

 

 

ところで、ご報告があります。

 

 

これまで私は、なんとなくふわっとサンリオ全体が好きなだけだったのですが

推しができてしまいました。

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ポチャッコ

 

めっちゃ可愛いな(それはそう)

一周回って戻った感あるよね。

 

耳がハネてるなど動きのあるデザインが当時新鮮だったらしい。

展示で、飛行機に乗って斜め上から家を見下ろすという鳥山明みたいなアグレッシブな構図の絵のポチャッコがいて、このほわほわ絵柄でその構図?!って感じがとっても良かった。

同時にデビュー直後のポチャッコは、服着てなくてまっしろでほんとうにぽちゃぽちゃしてて、なんか、その2つにやられちゃった。

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そのせいで推しの名前で最悪な検索することになったけど(おまわりさん誤解です)。

 

 

 

 

 

 

仕事を選ばないキティさん、なんてネタとリスペクトと親しみを込めて我々はよく言ってるけど、本当にサンリオはだてじゃなかった。

サンリオが、今あるカワイイ文化の礎、型、定番を作り上げたところは確実にあると思うけど、当のサンリオはその型にハマる気なんて全然なくて、こうすればカワイくなるでしょみたいな保守的なあれが本当に全然ない。

型を日々ぶち壊し続けながらも、守るべきラインはきっちり引いてて、ワクワクさせてくれるけどヒヤヒヤしない。

 

 

 

ああ、ポチャッコを守りたい。

 

 

 

 

君と夏の夜の街

きのこ帝国というバンドの、猫とアレルギーというアルバムを、最近よく聴いてる。

本当はよく聴いてる、というものじゃなく狂ったようにこればかり聴いてる。

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しょっちゅうじゃないにしてもこういうことはたまにあって、単に良い作品を気に入っているというだけじゃなく、自分の気分の問題なんだと思う。不足していたものを埋めているような気がしてしまってる。

 

そんなふうに好きなものに寄り縋って生きるみたいなのが10代の頃は本当にひどくて、いい加減そろそろやめたいのに全然やめられない。まじでやめたい。どうしよう、このまま年取って「このバンドが今のわたしの酸素みたいなもの」「イヤホンが命綱」とか言ってる46歳会社員女性とかになったら。さすがにそこまでは当時も今も言ってませんが…

 

好きすぎてつらい、というものがたくさんあるおかげでつらさが相殺されてバランスが取れてる。

 

このアルバムも数年経って聴いたときに、今の生活とかよく考えていたことが色濃くフラッシュバックするんだろうな。

 

 

 ***

 

宮下奈都さんという人の小説が好きで4冊目を読んでる。

とても想像の及ばないような素晴らしい世界を作り出しているんだけど、それはそうと自分の書く文章と似ててずっとビビってる。こういうSNSの文章じゃなくて、もうちょっと真面目な、でも好きに自由に書いたときのやつ。確かに私もそこに句読点打つな、分かる。とか。

 

他の人はどうか分からないから、もしかしたらこの人の文章は誰でもそう感じやすいのかもしれないけど。

ただWikipediaによると、宮下さんは幼い頃に読んだ本でだれも知らない小さな国」が特に好きだったそうで、もしそれの共通する影響があるとしたらすごくいいなと思う

私が小学生の頃に青い鳥文庫で読んだ「だれも知らない小さな国」シリーズ。何回読んだか分からない。

『二十年近い前のことだから、もうむかしといっていいかもしれない。ぼくはまだ小学校の三年生だった。』

シリーズ一作目はこの書き出しで始まった。

そんな書き出しの児童書は他になかったから、それだけでも自分の知らない世界を想像させてくれる大好きな本だったな。それを読んでから本当に二十年が経ってしまった。

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間違ってネットショッピングを実家に配送してしまった自分ナイス。

おかげで帰ってちょっと読み返せた。

 

 

宮下さんの「スコーレ」という作品の主人公が、自分には心から愛せるものがないと嘆くんだけど、そんなのつらすぎるよね。

私は自分の好きなもののことが本当にめちゃくちゃ好きだなって思う。

これが好き、これが欲しいと、本気で迷わず思えるのは幸運なことだと思う。

そういうのが本当に自分の希望や原動力になってくれるには、「自分なんて」みたいな気持ちがあったらできないんじゃないだろうか。ラブマイセルフ。

 

 

 

 

0912RM LOVEMYSELFとは

愛しているという言葉よりもっと良い言葉があれば良いのですが

(2019.10.29 SYS TOUR THE FINAL)

 

ぜひ僕を利用してください。ぜひBTSを使ってください。あなた自身を愛するために

(2019.4.7 love yourself tour)

 

愛という普遍的でたくさん語られてきたものを自分自身の言葉で語ることができるようになるためには、どれだけのことに本気で向き合い、深く考え続け、相手を思っているのでしょうか。

愛してるという言葉を、사랑해、I love youほどに日本語は使いません。

彼がもし日本語を母国語として生まれていたら、それをどう考えて言い表していたのだろうと思います。それを見てみたいとも思うけど、ハングルを母国語に生まれてくれて良かったとも思います。

日本語で、と括るのは雑かもしれませんが、普段の私の感覚で言えば、自分のSNSやブログに「愛とは」なんて書くのは照れくさいと思ってしまう。そんなことを大真面目に言うのは万人受けする歌詞を書く歌手だけでしょ、と。

 

love yourself とはなんなのか?

私は結局はっきりとはわかっていない。ただ思うのは、彼らに示されなければ考えることもなかっただろうということ、考えなくてもそれはそれで済んでしまっていただろうということ、それが何か旅路に誘われてしまったのだということ。随分後追いではあるけれども。

彼らは画面を見ている世界中の人に向かって、数万人の観客に向かって、「愛しています」「自分を愛して」と言う。

愛とは一対一の関係でお互いに与え合うものだと考える人から見れば、その構図は偽善にすら見えるかもしれない。

彼らの言う愛とはそうではなく探して見つけるものなのかもしれない。どこかにあるという意味ではなく、自分の中から。

もしくは自分の中から自分のために生み出せるものなのかもしれない。

彼らの言う「自分を愛して」はそれのきっかけになろうとしているように思えます。

 

私は愛されて甘やかされて平凡でも幸せに育った人間で、基本的に自己肯定感には困らない方で、でも肯定感があったとしてもそれとは別に劣等感とコンプレックスでがちがちでいる人間です。それが原動力になることもならないこともあります。

ナルシストと自己肯定は違う。 卑屈と謙遜は違う。

私にとってのlove myself は、他者に左右されない(その代わり他者に認められもしなくても)自分の価値を自分で認めること。

 

名声を得ることによって、自分たちの価値を高めるのみならず、私たちの価値を高めてくれてありがとう。そんな人は、これまでの私の人生ではあなたたちのほかに知りません。

お誕生日おめでとうございます。愛しています。

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2021.09.12

 

 

 

0901JK

パッと目を引く顔立ちをして中心にいたから、早いうちに名前を覚えた。

でも同時に「要領が良くて、何でもそつなくこなす」なんて話をそこかしこで聞いて、なんかちょっと斜に構えてしまった。幻滅したくない、という自衛みたいなものでもあるのでそれは仕方なかったのだけど。ははーん、世渡り上手の愛され系イケメンねこの人は、はいはい。みたいな。

眼が少女漫画のようにきらきらしていて、その丸い眼を惜しげもなくくしゃっとさせる笑い方に、まず懐柔させられてしまった。

中心にいると思ったけど、よく見ると実は後ろや端っこにいることも多くて、それに気がついてからさらに気になっていた。

世渡り上手というのは違った。イケメンって言葉も、相手が身近になると使わない言葉だった。愛され、はもちろんそうなんだけど、それ以上に愛を与える人だったから、彼について抱いた第一印象は結局どれも違った。


努力の人だってことを1番に思うのに、そんなありきたりな言葉ではこの人のことをなにも言い表せないからもどかしい。
ありきたりな誰にでもできることを誰にもできないところまで極めることは、どれほど難しいのだろう。

たしかになんでも要領良くこなしているけど、「ラクしたい」とか「うまいことやりたい」という考えに少しもならないでいることは、私みたいな人間から見るととてもすごいことに見える。

負けず嫌いで、自分に厳しくて、裏表がなくて、ずっと努力し続けていて、でも何より本当に好きだから努力しているんだということ。そんなあまりに真っ直ぐな、なんのひねりもない、主人公みたいな魅力が多くの人に伝わることは、もっと難しいと思う。

でも努力している姿を人に見せるべきかどうかなんて関係なさそう。関係がないというよりは、そんな発想がない。

努力も才能の1つだと言う人がいる。一方で、好きになれるものと打ち込める環境を見つけられることは幸運なことだと言う人もいる。彼にはそれ以上にたくさんの才能と幸運が溢れているように見える。
そのたくさんの才能も幸運も、こんなにも無駄なく目いっぱいに受け取ることができるものなのかと、いつも思ってしまう。

ヒーローみたいだ。私にできないことも彼ならやってくれる。


こちらから見えない面はきっとあると思う。
実はせこくて手抜きでずる賢くて自分本位で礼儀知らずな顔だってあるのかもしれない。それで全然構わないんだけど、そんな言葉たちがジョークに見えるほど、常に良い人間でいるところを見せてくれてありがとう。

完璧に見えるところと、不完全で危なっかしく見える部分が常に同時にあって、そのせいで感じる人間臭さは本当にとても魅力的です。

 

ジョングクさんお誕生日おめでとうございます。

花様年華のこの場面がなぜかめちゃくちゃ好き。 f:id:harunonegoto:20210901202927p:plain

2021.09.01

サブカルを拗らせていた頃とその折り合い

ブレイクするっていうのはバカに見つかるってこと

有吉が2009年にアメトークで言った言葉らしい。あまりに普遍的でこわい。


甲本ヒロトのこんな言葉もある

売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンだよ。

この言葉を胸に刻み付けて辺鄙な音楽ジャンルに分け入った音楽キッズがどれだけいただろうか。


クラスメイトのほとんど誰も知らないような音楽をわざわざ好きになった人、そのきっかけには、もちろんたまたま好きになったものがマイナーだったこともあるでしょう。
でも「人と同じものなんか選びたくない」という自意識だった人もきっと多い。
逆に言うとクラスに馴染めない奴の99%はサブカルか二次元のオタク(女子ならバンギャも)の進路に進むじゃないですか。

冒頭から主語をデカくしてしまったので主語を自分に戻すと、私の進路先はサブカルでした。


はっきりといつから音楽を聴き始めた、なんてさすがに覚えていないけど、覚えているのは小学5年生の誕生日プレゼント。父に勧められてCDコンポを買ってもらった。
それ以外の誕生日のことなんて覚えてないのに、それだけ覚えてる。普通のラジカセみたいな形で、スピーカーの色が赤とか緑とか水色とかあって、私はオレンジを選んだ。勉強机の横に置いてた。
当初は特別自分で欲しがったわけではないのだけど、いつのまにかというか、当然のようにというか、ほどなくしてそのコンポにかじりつく生活になった。

高校の合格祝いでMDウォークマンを買ってもらった。そのコンポはCDMDにダビングできるというハイテク機能が搭載されていたんですよね。一瞬で滅びたMDっていう文明ご存知ですか?
バンド名を雑に手書きしたMDを1枚入れて、通学時間の行きも帰りも繰り返し聴いた。
くるくるするiPodが出始めたのもその頃だ。

当時コンポで聴いていたアルバムの一例

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音楽の情報源が父親とブックオフしかなかった頃。

 
再生ボタンを押した瞬間に最高に好きな音楽でひたひたに満たされて、頭の中がそれでいっぱいになるような、そういう瞬間がもしない人生だったら、思春期をどうやってやり過ごしていたのか想像できない。
高校1年の私にとって、イヤホンをして道を歩くっていうそれだけのことがめちゃくちゃ最強になれる瞬間だった。嫌なことがあっても嫌いな奴がいても、それよりもっとでっかい最高にいつでも支えられてた。

だから別世界じゃないとだめだったし、誰でも聴いてる音楽じゃだめだった。
クラスのカーストトップの子たちが好きな曲や、たぶん私の陰口を言っているあの子たちも好きな曲じゃ絶対にだめだった。
クラスのあいつらは知らない最高を自分は知ってるぜっていう、可愛いほどにちっぽけな自意識が自分を保っていた。

まぁ、流行り絶頂期のオレンジレンジとかも聴いてましたけどね。いいんだよオレンジレンジは。うちらの世代が聴かなきゃ誰が聴くんだよ。

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 大学で入った軽音サークルは、そういう自意識をどろどろに煮詰めたようなとんでもなく排他的な集まりだった(個人の見解です)。内側にいると死ぬほど居心地が良かった。


好きな音楽がそのままアイデンティティで結束だった。
限られた層だけが好む魅力があって、その限られた層に自分が含まれている時が楽しくて仕方なかった。
だから最大公約数化されたような伝わりやすい魅力の音楽を露骨に嫌ってバカにした。


限られた層として好んでいた音楽の一例f:id:harunonegoto:20210816015555j:plain


でもねぇ大人になるってそんなに悪いことでもないんだよね(遠い目をして煙草の煙を吐きながら)。
同じ教室で、同じ授業を受けて、同い年の、同じ学生という身分しか周りにいない生活だったら、しかもそれが自分とは何かみたいなのを確立する年頃だったら、自分と周りは違う、という意識をぎちぎちに拗らせるのは仕方ないのだと思う。

サブカル出身の人のその後はさまざまらしい
そのまま趣味を深めて仕事にするなど、本当にサブカルチャーが好きな人。
昔から好きなもの、好きなジャンルをずっと好きでい続ける人。
そもそも変な自意識とかではなく、ただ好みが大衆とズレてるだけの人。
趣味の範囲が広がってメインカルチャーサブカルャーも境界が薄くなっていく人。
私はそれ。音楽とか、あと映画とか漫画とか、そういうカルチャーが好きっていうのだけが結局残った。

もうこの先サークル仲間とコピーバンドを組むこともなければ、最近聴いてる曲のことを日常的に話す相手もいない。ただ同い年というだけの同級生と自分を比較するほど世界は狭くない。「〇〇を聴く自分」という他者の目への自意識も(以前よりは)ない。
じゃあ何を好きでもいいんじゃん。
って思ったらするする~っとK-popの1番売れてる沼に滑り落ちていって、いや、さすがに何でもいいにも程があるだろ勘弁してくれって、私の最後のサブカル人格が肩を強く揺さぶって思いとどまらせようとしたけど結局戻れなかった。

ただ、わかる人にだけわかるおもしろさとか、関連分野を開拓していく楽しさとか、幸いサブカル人格を満足させてくれる要素があるので今は良い関係を築けています。


人と被るのは嫌っていう考えが人と被ってることは、薄々気付いてはいた。
流行ってるから聴く、はダサいけど、流行ってるから聴かない、も同じだ。
でも純粋な好きってなんだろう。
好きなら他のことは関係ないんだ、って言葉にすると普通だけど、イメージとか人気度とかファン層とか一切意識しない好きなんて、もはやあるのだろうかとすら思う。まぁそういうの含めて好きっていうものもあるけど。

例えば、深夜に1人たまたまつけたラジオでたまたま流れた曲を何も知らずに一瞬で好きになったとして(そういう経験、私も2回くらいある)それが純粋な好きかというと、そのストーリー込みで好きみたいなところも、ないこともない。という可能性もある。かもしれない。


流行ってるものをなんだこれ全然好きじゃないな、って思うこと自体は今でもよくある。
でも考えてみたら、流行ってもいないし好きでもないものを知る機会というのは、まあ普通に考えて少ない。
だから好きでもないのに目にするものは、流行っている確率が高いというだけで、好きじゃないということと流行ってるにはそもそも因果関係ないよな。と考えると好きになってしまったなら関係ない、って結論にしかならないのかと、私のサブカルらせ人格は渋々納得の表情でk-pop聴いてる。