きのうみた夢どんな夢

読んだ本の話「楽しい終末」

読んだ本の感想をインスタで載せているのですがどうにも長くなりすぎたのでこちらに。ただの備忘録です。

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エッセイというのか、終末世界についての省察といえばいいのか。

人間社会が終末を迎えるなら、そして終末世界とはについての考察。

科学技術と環境破壊という目下の課題から、先に終末を迎えた種族としての恐竜の話、人はどこまで終末の世界を描けるのかというSFの話、そしてそもそもどうして人がこのように発展してしまったのかというサル学としてのヒトの話など…

 

思想云々とか以前にそういう難しく正解のない題材が、池澤夏樹さんの文章と目線だと全部魅力的な話に見えてしまって、夢中になってしまった。

 

例えば1章2章「核と暮らす日々」の原子力発電についての表現。

言ってみれば、核エネルギーは逆宝くじである。普通の宝くじは少しのお金を個人の意思で投資して万に一つの幸運を待つ。この原理によって人は毎月のまったくの浪費を許す。それに対して原子力発電は毎月少しずつの便宜を一方的に提供された上で、確率上は万に一つの巨大な不幸の実現を知らず知らずに待つ。(p77)

比喩表現というのは、まるでナントカのようなというただの言い換えではないんだよな…

 

個人的に興味深かったのは3章「ゴースト・ダンス」。

「近世と近代の世界全体でもっとも終末論的な過程を長く生きた」存在としてアメリカ・インディアンを取り上げた章。(当時はネイティブアメリカンという言い方はなかったらしくやむを得ず「インディアン」と呼んでいる)

開拓時代のアメリカで、もう戦うリーダーの出番がないほど追い詰められていたインディアンに、違うタイプのリーダーが登場した。つまり宗教家。そこで広まったゴースト・ダンスの話。

一度の催しに千人以上が参加することもあった。それだけの人々が昼夜の別なく五日間にわたっておどりつづけるというのは壮観でもあり、見かたによっては悲惨でもあっただろう。(p113)

 

たしかにゴースト・ダンスをきっかけにインディアンは自分たちにふさわしいミレニアムの夢を描いた。だがそこで語られる楽園は、(中略)言ってみれば現状をそのまま裏返しただけの、ある意味では貧しい内容のものである。(中略)彼らが本来持っていた奔放な想像力や文学的な表現力、広大な世界を描く神話的な精神の力はもうこの時点では残っていなかったのだろう。(p116)

今あるアメリカという国の、始まりの時代。それが終末であった人たちの世界はちょっとショックだ。その人たちの文化も勝手にアメリカの一部と認識していただけになおさら。

 

4章「恐龍たちの黄昏」も面白かった。

わくわくする恐竜の話、大人になってから読んでなかったかも。

恐竜の存在を認めるためには、まずもってその絶滅が受け入れられなければならなかった。(中略)言ってみれば恐竜は、今はいないという事実によって、われわれの世界に後ろ向きに入ってきたのだ。(p130)

まずこれまで我々が、恐竜のことを絶滅したという理由で劣った生物と見なしていたことを指摘してる。恐竜を、充分に発展して活躍した上で地球から退場していった種族、と書き表しているのが印象的。

 

ホモ・サピエンスというのは自然が試しに作ってみた無意味な玩具、最初から超高速で進化してたちまち行き詰って消えてしまう呪われた種なのだろうか。知力というのは結局は絶滅の因子でしかないのだろうか。(p152)

 

 

6章「人のいない世界」

このあたりからずっとうんうん唸りながら読んでいた。

なぜわれわれが糾弾されなくてはならないのか。今までの生活様式を改めなくてはならないのか。普通の水を使い、せいぜいうまい米を食べ、恥ずかしくない程度の車に乗って、下手なゴルフに付き合いで行き、運がよければ小さな家を建てる。汚れものは市販されている、つまりまっとうな商品として世に認められている洗剤で洗う。フロンのスプレーがいけないというのなら使うのをやめてもいい。しかし、それでもわれわれの行為ゆえに世界が終末を迎えるほかないのだと言われれば、それに対して返す言葉はない。(p198-199)

※書かれたのは90年から93年。

それくらいでは駄目なのだ。もっとも成功した捕鯨禁止運動でさえあれだけの紆余曲折を含んでいた。もともとの比率が九対一だった上に、巧みな世論操作を行ったから、クジラは救われた。熱帯雨林のような利害の錯綜する、いや正確に言えば、みんなが受益者で、被害者の像がなかなか見えないという事象の場合、伐採凍結は無理な話である。(p207)

 

人間の欲望にとって、地球はあまりに小さすぎた。無限に広かったのは世界でなくわれわれの欲望の方だった。(p214)

 

実際の話、この三百年間、世界の進歩を支えてきたのは、西欧的な方法を適用する範囲の拡大である。(中略)西欧文明の場は決して閉鎖系では、なかった。外からの物質の流入があってはじめて支えられた進歩であり、発展だった。それが地球の大きさという絶対の限界にぶつかった時、今見るような終末論が出てきたのである。(p306)

 

 

しかし終末論とか環境論とか反原発論とかそういう個別の話より、もっと根本的なところで私はひっくり返されている。

 

恐竜たちの黄昏の章で、進化論について書かれたこの一節。

進化論は単に生物学の思想ではなく、人間の自己確認そのものに関わる大問題だったのである。われわれが原理的には完全な生き物であって、その時々の事情で少し蹉跌を生じはしても最後には神の恩寵によって確実に救われうる存在であるという見かたと、人間など積もり重なる偶然の産物に過ぎなくてたまたま今見る形でこの世にあるだけだという主張との間には、橋の掛けようもないほどの隔たりがある。(p127)

昔は今とは違う説が信じられてきた、というあまりにも当たり前の事実を私は何も分かっていなかった。“信じられてきた”の部分を勝手に解釈していた。無知ゆえに、非科学の時代で、他になかったから、それを信じてしまったのだというように。それを信じる人々についての想像力がなさすぎた。

 

十七世紀の末ごろ西欧に台頭し、やがて世界全体を支配するに至ったある思想的な傾向がある。(中略)今も子供たちはこの思想を教えこまれ、その心地よい刺戟を利用してそれぞれのものの考えかたを形成し、世界はそういう風に運営できるものだと考えるようになる。二十世紀末の日本に生きるわれわれにとってもあまりにも普遍的であるために疑いを挟む余地がないかに見える思想。すなわち進歩の思想。(p303)

 

9章「沙漠的思考」でとどめを食らった。

実際、サハラ砂漠に立ってみると、方位の感覚が森林や草原とはあまりに違うことに驚く。地平線まで砂や礫しか見えない場所では方位というのは実に抽象的で無意味なもので、それよりは上下感覚の方がよほど強い。平らな地面の一点に自分が立っていて、その上に天がある。これが世界というものの基本構造であるとすれば、上から自分を見る超越者の視線は他のどんな場所よりも強く感じられる。何かが上から存在を保証してくれなければ、自分など砂の中にすぐにも消えてしまいそうだ。そういう不安感。自分がこの場にいることは決して自明ではない。上なる者によってそうあらしめられていると考える方が自分というものを受け入れやすいのである。(p308)

 

私は何もわかってなかった。

人が信じていることも自分が信じていることも。

宗教というよりも自然観、つまり世界の捉え方そのものを、自分で選んだかのように思っていたと気付かされた。一神教よりも八百万の神の方が馴染みがあるし好きだなぁ、みたいな。でも一神教を信じている人たちの方が世界では多いらしいねみたいな。

自分の知らない世界はどれだけ広いんだろう。

いつか必ず砂漠に行ってみようと思った。人生でやりたいことリスト久々に更新しよ。

 

今まで知らなかったから、気付いていなかったから、見えてなかった部分を強制的に明るく照らし出されている。使っていなかった脳みその領域を強制的にめりめり押し広げられてる。

 

 

 

その他、ここに出てきて読もうと思ったものリスト

・『黙示録三一七四年』ウォルター・ミラー

・『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』ジェイムズ・グレアム・バラード

(いよいよSFの苦手を克服しなければ…)

・『森林の思考・砂漠の思考』鈴木秀夫