きのうみた夢どんな夢

物語や好きや信仰が必要な人たち

旅行中の話の余談。

 

予想通り、3日目くらいで音楽を聴きたくなった。
旅行に飽きたのでもホームシックでもないけど、知らない情報を浴びすぎて疲れてた。
だからBGMがほしいのではない。ただよく知っているものがほしいという感じ。たぶんそれが人によっては読書だったり日本食だったり運動だったり、あるいは必要としない人もいたり、むしろ知らない情報ばかりを浴びることが必要な人もいる。
聴き慣れた好きなものを選んでいたらどれもまるで目の前の景色に合わなくて良かった。周りではなく自分に合わせたもの、自分側のもの、自分の予測可能なものとしての音楽。思考のペースを取り戻せる感じがした。そうそうこれこれ~みたいな。

でもさすがに推しのYouTube観てたときの光景はおもしろすぎてなんか写真撮っちゃった。
背景強いな
「そういう信仰のやり方かと思った」と夫に言われたけど、私はアクスタと写真撮るタイプのオタクではないです。

 

それからたまたま完ぺきなタイミングでバンコクに帰り、たまたま完ぺきなタイミングでSNSを開いて知ったおかげで、バンコクで藤井風のrsr配信を観れたのも最高だった。風さんの弾き語り良かったですね。インターネットは実に素晴らしい。

 

 

物語を必要とする人としない人がいる、ということをたまに聞く(読書はするけど小説は読まない、とか)。
確かにカルチャーというものを必要としない人は世の中に一定数いるのだと、社会人になって思う。いや、多数派はどっちだろう。バカみたいにカルチャーをありがたがる人が一定数いる、というだけなのか。
そして自分があまりにも必要とする側だったと最近気づきつつある。学生時代は自分より詳しい人が周りにうろうろいたから、自分はそこまでそっち側じゃないように思ってた。
自分の父はカルチャー側で、しかし母は必要としない人だ。だから夫婦でそこが違うのは問題ないと思っているけど、藤井風見て「1年後にはいなくなってそう」と言った夫についてはその言葉を20年後まで覚えとけよと思いましたね(夫へ、これは言質です)。

 

 

 

 

猛暑のバンコクルンピニー公園にいた最高の猫見て。

ずっと寝てた。

 

 

 

私は旅行に限らず写真が好きで、こういう旅行中などは息をするように撮ってしまう。特に街を歩いていれば網膜をレンズにして瞬きがシャッターになってほしいと思う。今回6日で700枚撮ってた。
けれども食べ物の写真だけは「撮ったところでどうしようもないし」と撮らない。他の700枚をどうしようもあると思っているわけでもないのに。
こちらは今回食べた中で1、2位を争う美味しかったカオマンガイ
他の写真と変わらず真剣に撮っているんです。「遠くない?」と夫に言われる。
私もそう思う。
心理的距離かな。
興味の無さがここまで表れる写真になるのは、逆に撮影者としての腕が確かなのではなかろうか。
食べ物の写真って、食べなければ美味しいかわからないし、食べてしまうと撮れないのに、「美味しい!」という感動をどうやって撮ればいいのだろう。

などと考えているがそもそも私は食べ物を美味しそうにも素敵にも撮ることに正直言って興味がない。なぜなら食べ物に興味がないから。インスタグラム等々で友人たちの食べ物投稿を見るのは全然好きです。喜びだったり日常の一コマだったりするから楽しい。みんな、私の分まで食べ物を美味しそうに素敵に撮っておいてくれ。

 

 

食べ物のある景色自体は好きで撮る。

 

 

700枚も撮ってなんのために?と自分でも思いながら、やっぱり趣味ってそういうことだと思う。
自分の中での趣味の定義は「それをすることそのものが目的」とか「その先が動機にない楽しみ」というようなものだ。
さらに厳密に言うと自分の中の“好き”と“趣味”の違いは「それをするため、極めるためのコストを疑いなくかけられる」かつ「その多寡を人と比較しようと思わない」なので、そういう意味では写真はただ好きなだけ、なのですが。
そして、自分のその定義に当てはめて趣味だと言えるものが「音楽を聴く。好きな音楽を増やすために、情報収集や知識をつける努力が常にできていると思えないと気が済まない。」ということしかない。私には好きや興味関心は多いが、趣味、といえるほどのものが少ない。

(という定義は置いておくとしても)趣味にはインプットとアウトプットの両方あると言われ、アウトプットというとたとえば創作したり身体を動かしたり、インプットというと鑑賞などになるのだろうけど、私のアウトプットなんてインプットの感動の外部出力みたいな感じだなと思う。写真も文章も。

アイドルを追っかけることも、手間も金銭もコストをかけられる(大抵かけすぎる)わけだけど、ちょっと違う。アイドルオタクという行為、“好き”とも“趣味”とも別物というか、究極に突き詰めれば、信仰…?

 

 

本物の信仰であるワット・アルン(と、妙にマッチした私の服)。暑すぎて顔死んでた。

 

 

日本人旅行者は少なく、英語もろくに、タイ語はまるきり話せない私にとって、このタイ旅行は言語情報が極端に排除された数日間だった。ここに3000文字書きながら言うことでもないが、たまに言語情報から解放されるってすごくストレスフリーかもしれない。
田舎の家で1人でデジタルデトックスでもしてみようか。キャプションのないインスタとピンタレストのみ可。そこで一気に世界文学全集とか読むと乾いたスポンジのように吸収できるんじゃないかと思う。
お坊さんの修行に一定期間人と口をきかない、というものがあるらしく、やってみたいとは言わないが前後で人はどう変わるのか興味がある。
 

知らない言語の話者たちを眺めていると、言語とはなんと妙なツールだろうかと思う。
声帯を振動させて舌や口唇等の形で変化をつけた音声記号によって思想、感情、意思他を伝達するという行為を駆使して社会性を発展させた人類すごい。明らかに身体の一部分だけを複雑に活用しすぎてる。

 

気分を高める意味でも、出発前に少しだけタイ文字を覚えた。ご飯食べながらYouTubeを見ていた程度ですが。意味は諦め、文字を音声変換することのみを目指したけど、実際行ったらポップなフォントの読めなさに発狂した。
タイ文字は、ローマ字のように母音と子音のつくりなので読み方だけであればそこまで特殊な難しさはないと思う。発音はかなり難しい。文法に至っては未知です。
ハングルのおかげで日本語とアルファベット以外の文字を読むハードルがぐっと下がった気はする。タイ文字はハングルより種類も例外も多いので順番的にも良かった。読み方がころころ変わる表意文字と2種類の表音文字が混在する極東の島国の文字に比べたら全然とっつきやすいでしょうよ。
言語を知るということ、私は結構好きなのかもしれない(前述の自分の定義に当てはめれば、確かに趣味ほどではないけど好きではある)。会話をしたいというより、模様が文字に見えてくる過程がとにかく楽しい。未解読文字の研究者の気持ちもわかる。

駐在員というのはその気がなければおそらく日本語と英語とあとは翻訳アプリでなんとかなってしまいそう。夫はタイ語会話をかなり習得していて感心した。覚えた単語や発音はすぐに試したがり、そういうトライアンドエラーの苦労を厭わないのは尊敬する。
頼りすぎて私の脳みそはほとんど回っていなくて、そんな難しいタイ語わかるの?と驚いていると「今の会話は英語だったよ」と言われることが多々あった。負けじとタイの単語1つ教わるたびにハングルの単語1つ教えてたけど全部聞き流してくれた夫には感謝しています。
自動翻訳がどんどん進化しているのに外国語を習得する意味は?という意見もあるが、私はただおもしろいだけなので関係がない。便利なのでそっちもどんどん進化してほしい。
それに「自動翻訳があるから」というその発想は「検索すればわかるから勉強しなくていい」という発想に近くてちょっとこわいなと思う。
あと自動翻訳で思い出した関係ない話だけど、早くAIが進化してロンゴロンゴ文字とヴォイニッチ手稿が解読されてほしい。